油日自治振興会

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戦国武将とロマンの郷 ・ 和田惟政(戦国武将)

 

●和田惟政(戦国武将)

亨禄3年(1530)近江の国和田村に生まれる。
幼少の頃から近江源氏佐々木六角氏に仕え、定頼公の命を受け足利幕府の世子菊童丸(後の義輝公)に御供衆として仕えていた。成長に伴い武功度々に及び伊賀守に叙任される。
永禄8年(1565)足利13代将軍義輝公が逆賊松永久秀等に謀殺され、義輝公の弟奈良興福寺一乗院門跡覚慶殿の身辺にも危険が及んできた時、将軍の直臣であった細川藤孝、大和の米田求政と語らい覚慶殿に仮病を使わせ、求政が医師に化けて寺内に入り込み衣服を取替えて首尾よく寺の外に連れ出すことに成功した。永禄8年7月28日の夜であった。
覚慶殿を連れた一行は奈良から上柘植を経て、甲賀郡和田村の惟政の館へ入った。
惟政は足利15代将軍となる義昭公(覚慶)に仕え、織田信長と義昭公を結び付けて自身は信長公の武将として甲賀武士団を統率して信長公の天下布武に貢献、足利幕府の再興に尽力した。
前記の活躍により摂津の芥川城・高槻城二城の城主として、また京都所司代として洛中の治安を担当した。
元亀2年(1571)8月隣藩池田知正との境界争いに端を発した戦闘となり、世に有名な白井河原の合戦となり、荒木村重・中川瀬兵衛等と激突、惟政は部下200と共に玉砕した。


油日地域の歴史

  山岡城址は、毛枚中央部にある山頂に作られた岡本匡家裏台地にある高さ3メートルの土塁に囲まれ、入り口は北西の角にあり空壕が通路となっている。  室町時代、「大伴家持」「大伴旅人」の末裔、「伴の太郎景広」が甲賀郡大原荘毛牧(毛枚)村の山間に館を構え領有し、山岡城を築く。後に「毛牧太郎」となのる山岡氏の祖先。戦国時代甲賀から湖南に移った「山岡景長・景之・景隆」は六角氏の下で旗頭を勤めた。六角家滅亡後、織田信長の武将となって瀬田橋の普請奉行を勤めるなどした。  本能寺の変に際し明智光秀の誘いを絶って、瀬田橋を焼き落とし光秀の安土城侵略を食い止めた事はよく知られている。  この時、徳川家康は和泉国堺でこの変を聞き、急ぎ三河の国に帰城せんと田上山を経て信楽村に入る。景隆は弟景友と共に家康を迎え先導する時に信楽の草賊多数集まり、家康に抗してその進路を遮る。 景隆等奮戦して賊を破り小原村小川城入る。伊賀の国へ音聞峠(御斎峠)を越え伊勢の国鈴鹿に至り、白子浜より舟にて岡崎城に帰城する。  その後の豊臣、徳川政権下でも景隆、景友(道阿弥)、景以らの山岡一族は活躍した。  彼らはまた園城寺(三井寺)光淨院や石山寺などとも深いつながりを持ち、社寺の復興にも力を尽くしており、長く近江湖南の地に影響力を保った。油日神社棟札にも山岡姓の六名が見られる。  前回の振興会だよりの梵鐘は、山岡図書頭(景以)母「宗栄(景隆の妻)」を筆頭とする山岡一族から寄進されたものである。

  滝小字上出集落の山裾に、茅葺き屋根にトタンを被せた観音堂があり、この寺は無住で上出地区8戸のみで護寺管理を続けており、正式名を「慈雲山元龍寺」と称し、甲賀西国三十三観音霊場第八番札所として、遠近を問わず参詣者が訪れています。  元寇の役(1274)後、弘安7年(1284)佐々木六角の招きにより多喜に住し、多喜姓を名乗り土着して、多喜家の元祖となった、初代多喜彦太郎家継の子、康氏の二男(彦太郎の孫)に当る来峰和尚の開山と伝えられています。「和尚は時の南北朝の動乱の鎮護を祈願するため、十一面観音を本尊として滝上出に元龍寺を開山した。」との記述があります。  本尊の十一面観世音菩薩立像は、木造等身大(実像の姿は聖観音)で平安中期の秀作と云われ秘仏となっており、年1回8月10日に開帳が行われています。  昭和47年甲賀町指定文化財となり、現在は市指定文化財です。県学芸員による仏像詳細調査の実施により、尊像は頭上面を亡失しているが、当初より十一面観音であることは明らかである。との事が解明され、同時に防虫、防湿対策が急務の指摘により、上出8戸が大きな課題を受け、護寺管理に歩んだ。以下経過概要の一端です。  昭和61年、尊像燻蒸(琵琶湖文化館)。  平成10年、県立近代美術館の要請を受け、「近江路の観音さま展」に出展。平成14年、栗東歴史民俗博物館の要請による、尊像燻蒸と併せ「近江の彫刻、湖南・甲賀の十・十一世紀展」に出展。 平成15年県学芸員の指導による数百年に一度と云われる本尊修理(平成15年9月~平成16年3月)。元龍寺の年間行事、月並念仏講、年1回の8月10日の開帳には、本尊の直接拝観を臨む遠隔地からの参詣者が訪れています。  本尊修復10年を経て、更に本堂の老朽化が進み、その対策の難課題を抱え、観音霊場札所を分担する一寺院として、また市指定の平安文化財を護るため、8戸(在住7戸)が一致して護寺管理に務めている現状です。

 広報担当者より、岳ごもりと関連する大宮ごもりについて一筆との依頼を受けた。
 内容を詳しくご存じでない方が多いと思うので、細かく記す。共に秋祭りの一環であるが、岳ごもりは9月11日。登山参拝者は宮司、岳宮守(曽和株、現在八戸が1年交代で奉仕)、営林係2名、総代9名、年によっては崇敬者若干名のおおよそ15名である。
 午後2時車にて神社を出発。楓の古場の奥、火とぼしの旧跡近くで下車。これより1時間ほどかけて登山。 小休の後、宮司と岳宮守は白衣、装束に着替え、夕暮れまでに祭典を終える。
 まず、お祓いの祓詞を奏上、神饌品、火きり具(旧来の火を熾す道具)、岳宮守以下参列者、続いて氏子地域及び崇敬されている伊賀方面に向かって祓う。
 続いて火きり具を用い神火を熾す。これは山上でもありその日の天候や湿気に左右され、かつ少々コツがあってなかなか難しい。毎年初めての総代さんは感心されている。次に祝詞奏上、玉串奉奠にて神事は終わる。
 神火はランタンに移し、終夜消えないように灯油を補充し管理に務める。その後は一段低い山小屋にて直会。終わって仮眠に入る。時節柄、暖を要するので小屋の前でも穴を掘り、朝まで焚火をする。日の出とともに神火を奉持して下山。大宮ごもりの元火とする。ただし、登山参籠ができない場合は火とぼしあるいは本社前岳遙拝所にて斎行する。
 9月13日夕刻よりの大宮ごもりは県内でも珍しい祭りである。油日の神の御神徳に因み火の恵みに感謝する祭りであり、また新穀の収穫を控え、強風大雨も無く立派な稲穂に育ちますようにと乞願う心と、氏子崇敬者の安全を祈願する祭りである。
 氏子青年会会員は数日前より連夜の準備、当日朝からは奉納された約300灯の、祈願詞と奉納者名墨書きの万灯提灯掛け等を奉仕。夕方5時頃より各区の総代、当番の方が定まった座の用意に入る。
時同じくして御神火点火祭斎行。並行して自区内奉納者の名札の所に直径10㎝くらいの土器を並べ、油を注ぎトーシミ(灯芯)を2本ずつ浸す。
 土器は4段に組まれていて、氏子崇敬者合わせ拝殿周囲に千枚程となる。数多い灯火は自然体で神々しく感謝の心を表すのに相応しい奥深さが感じられる。風の影響で消火また油の追加等、当番さんは忙しい。
 大宮ごもりの名の如く、昔は翌朝までの籠りであったが、時代とともに14日午前0時解斎としている。芸人さんもみえ抽選会の催し等があり境内は深夜まで参拝者で賑わう。


 毎年1月第3日曜日には、龍福寺の本尊滝のお薬師さんの「えとえと」が行われます。
 「えと」とは兄弟のことで語源は中国にあります。この行事はお薬師さんをこの地にお祀りして以来千二百年、伝教大師最澄によって兄弟の誓いを、お祭りの行事として伝えられたもので、この地に生まれて満二歳を迎える年に、本尊薬師如来の御宝前にお参りをします。
 当日、満二歳になる子供がいる家族は、頭屋(その年で一番早く生まれた家)に集まり未明より餅つきをします。杵は長さ一間ほどの丸太棒で、父親たちがひとり1本ずつ持ち「えと、えと」と言いながらつくのです。
 午後2時になると、いよいよ行列開始です。羽織袴姿の頭主が先頭になり提灯を持ち、次に、二歳になる子供を母親が着物姿でおんぶして、豆腐一丁の上にひとつまみのお味噌をのせた物を、かごの中に入れて持ちます。他の二人が、ついた飾り餅を桶に入れて担い棒でかつぎ、次に花餅をつけた笹竹をかついで、お酒をふるまいながら「えとーえとー」と言いながらお寺までの道中を練り歩きます。やがて上組と下組が龍福寺に到着し同時に本堂に入り、お供えをして左右に分かれてお餅の飾り付けをし、それを終えると祈願法要が始まります。 拝んでいただいたお餅をいただくと子供が授かると言われているので、この日は子授けの祈願に参る方や、子供が授かったと御礼参りに来られる方でいっぱいになります。
 この法要が終了すると来年の頭主に引継ぎ、鏡餅を一年間保管し翌年の餅の中につき混ぜて、子授け餅は永く永く伝えられていきます。その昔、頭屋は一年間精進し、この行事が一週間かけて行われたと伝えられていますが、今は一日の行事となっています。
 龍福寺の本尊薬師如来は、東方浄瑠璃浄土の世界に住する仏様で、太陽が昇る東方は新しい生命を産み出す大きな力があり、生命の根源といってよい浄土です。このお寺で、子授け祈願の「えとえと」が永く行われているのは、お薬師さんの誓願によるところが大きいのです。

 

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