ドイツ1919〜1931映画回顧展(1995年11月)
■ドクトル・マブゼ第1部
世紀の賭博師■■■■■■■■
Dr.Mabuse
−Der Spieler
1922年/白黒サイレント/102分
スライド日本語字幕付/音楽付

■ドクトル・マブゼ第2部
犯罪地獄■■■■■■■■■■
Dr.Mabuse
−Inferno des Verbrechens
1922年/白黒サイレント/100分
スライド日本語字幕付/音楽付
脚本:テア・フォン・ハルボウ(ノルベルト・ジャックの小説による)
撮影:カール・ホフマン
美術:シュタール=ウーラハ(第1部撮影中に死去)、オットー・フンテ、エーリヒ・ケッテルフート(第2部)、カール・フォルブレヒト(第2部)
製作:デークラ・ビオスコープ社
監督:フリッツ・ラング
出演:ルードルフ・クライン=ロッゲ(マブゼ博士)、ベルンハルト・ゲツケ(ヴェンク検事)、アルフレート・アーベル(トルト伯爵)、アウド・エーイェゼ・ニッセン(カラ・カロッツァ、踊子)、ゲルトルート・ヴェルカー(トルト伯爵夫人)、パウル・リヒター(エドガー・フル、百万長者の息子)、ローベルト・フォルスター=ラリナガ(シュペリ、秘書)、ハンス・アーダルベルト・フォン・ショレットウ(ゲオルク、マブゼ博士の運転手)、ゲオルク・ヨーン(ペシュ)、カール・フサール(ハヴァシュ)、グレーテ・ベルガー(フィフィ、女中)、ユーリウス・ファルケンシュタイン(カルステン、ヴェンクの友人)、リューディア・パチェヒナ(ロシア婦人)、ユーリウス・E・ヘルマン(シュラム)、カール・プラーテン(トルト伯爵の召使)、アニタ・ベルバー(踊子)、パウル・ビーンスフェルト(ピストルを持った男)、ユーリウス・ブラント、アウグステ・プラッシュ=グレーフェンベルク、アデーレ・ザントロック、マックス・アーダルベルト、グスタフ・ボッツ、ハインリヒ・ゴート、レオンハルト・ハスケル、エルナー・ヒュプシュ、ゴットフリート・フッペルツ、ハンス・ユンカーマン、アードルフ・クライン、エーリヒ・パプスト、エドガー・パウリ、ハンス・シュテルンベルク、オーラフ・シュトルム、エーリヒ・ヴァルター
【あらすじ】
第1部●大賭博師ー時代の映像
マブゼ博士はたいへん成功した精神分析学者として、社会に知られている。だが彼は二重生活を送っており、数多くの仮面の下で、催眠術の能力を利用して、犯罪的なやり方で財産と権力の拡大に勤めている。
ちょうど彼は、スイスとオランダの間でコーヒーの取り引きに関する経済協定交渉が行われていることを知った。彼は列車の中でその使者を殺させ、協定書を盗ませる。さらに電話工事人に偽装した共犯者からの報告で、両国の交渉が成功したことをマブゼは知る。そこで彼は真面目な実業家の仮面の下に、取引所へ行く。そして秘書のシュペリに命じて、協定書を入れた書類カバンが、取引所の開く半時間後にスイス領事館に手渡されるようにする。マブゼが取引所にはいると、協定書の記録が消えたという知らせが来て、株価は870から120に下がる。マブゼは買う。すると記録が見つかったという知らせが来て、相場は980に上がる。マブゼは売って一財産にする。
夕方彼は精神分析によって人間の頭脳が受ける影響について、講演する。その間に彼は行商人に扮して、貧民街にある彼の偽札工場を督励したり、銀行家フーゴー・バリングに扮して、「フォリ・ベルジェール」を訪れたりする。そこには踊子カラ・カロッツァが登場するが、彼女はマブゼの忠実な共犯者である。彼女は次の犠牲者として、大金持ちの工場主の息子エドガー・フルに、マブゼの注意を向けさせる。マブゼは催眠術を使って、フルを自分と一緒にヴァリエテから連れ出し、トランプ・クラブ「174」に案内する。そして催眠状態のフルを大敗させ、15万マルクという大金を、翌日ホテル・エクセルシオールのフーゴー・バリングの部屋へ持ってくるようにと言う。
翌日フルがホテルに負債を払に行くと、そこで彼はカロッツァに出会う。たちまち彼女に魅惑されたフルは、彼女に言い寄り、彼女は指令されたとおりそれを受け入れる。数日後フルが家でカロッツァを待っていると、フォン・ヴェンク検事が訪ねてくる。検事は「フルさん、私はあなたが今日から警察の直接の保護の元にあることを告げるために来ました」と言う。彼はさらに6週間前からいかさま賭博の被害を受けたという訴えが当局に寄せられており、あなたが謎めいたバリング氏に賭けで大敗したと聞いたので、協力を頼みに来たのです、と言う。相手はどうやら同一人物らしいとも言う。
検事が立ち去ると、マブゼに強制されてカロッツァがやって来る。そして、検事の名刺を見つけると、そんな危険な付き合いはしないようにと警告する。ヴェンクは、友人のカルステンと一緒に「シュラム・グリル」に行って食事をし、そこで捜査を続ける。彼はレストランの裏部屋でトルト伯爵夫人に出会う。彼女は賭博者の間では「不活動分子」として知られていた。彼女自身は賭博に加わらなかったからである。彼女は美術収集家の夫に退屈して、賭博場の雰囲気を愛していたのである。そこでヴェンクは彼女を説得して、未知の大物の捜査に協力させる。
その間にマブゼは新たに白髪の老人に変装して、隣の賭博台に座り、ロシア夫人と5万ドルの真珠のネックレスを賭けて勝負し、いつものトリックで、それを自分のものにする。一方ヴェンク検事はカロッツァから、秘密の賭博クラブのリストを手にいれる。そこで彼は仮面をつけて、まず初めにマブゼが入った「アンダルシア」の店を訪れる。そしてエキゾチックな印象を与える老人を、怪しいとにらむ。マブゼはヴェンクに催眠術をかけようとするが、初めて抵抗にぶつかる。マブゼはヴェンクの仮装を見抜き、自動車で逃げ出す。そしてマブゼの仲間がヴェンクを引き留めようとするが、ヴェンクはマブゼの後を追って、ホテル・エクセルシオールまで行く。しかしマブゼは給仕に化けて姿をくらます。
マブゼは今やフルとヴェンクを片付けようとする。彼の指令でカラ・カロッツァはフルの家に行き、新しい賭博クラブ「プチ・カジノ」の開店に招く。その際、マブゼの手紙を落として、気づかずに帰る。ヴェンクは、カロッツァが疑念を抱かないように、無邪気に振る舞うようにとフルにすすめ、私があなたの前にそこへ行くから、何の危険もないと安心させる。賭博が始まったところでヴェンクは警察に電話をかけ、手入れをさせる。しかし混乱の中でマブゼの一味はフルを射殺してしまう。カラ・カロッツァが逮捕される。さて、トルト夫人はある心霊術のサークルで、有名な精神科医マブゼ博士に出会い、彼を翌日のトルト邸でのパーティに招待する。ヴェンクはトルト伯爵夫人を訪れ、その協力を乞う。「あなたは賭博クラブで一緒にあげられたかのように、自発的にカロッツァの独房に入ってください。私はあなたが、カロッツァに口を割らせることに成功すると確信しています」と言うのである。あらゆる時代で最も危険な犯罪人の一人の手がかりをつかむためですと言われて、ついにトルト夫人は承知し、警察の留置場にはいる。そしてカロッツァに「殺人が行われたとき、あなたは近くにいたの」と探りを入れると、カロッツァは夫人の演技を見破ってしまう。そこで夫人はフルがマブゼに殺されたことを告げるが、カロッツァは「マブゼは偉大な人間であり、自分を愛している。このただ一人の人を裏切ることはできない」と言う。伯爵夫人は「ご免なさい、カロッツァさん、私はあなたが彼を愛していることを知りませんでした」と謝り、それ以上探り出すことをやめる。
次にトルト邸でパーティが開かれる。マブゼ博士も来る。彼は伯爵に催眠術をかけ、カード遊びでお客たちにいかさまを仕掛け、しかも見破られてしまうように仕向ける。招待した主人がいかさまをしたというので、スキャンダルになり、パーティは吹っ飛んでしまう。伯爵夫人は気を失う。マブゼは混乱を利用して、彼女を連れ出し、自分の家の以前カラ・カロッツァがいた部屋に閉じ込める。

第2部●地獄-我々の時代の人間の勝負
すっかり取り乱したトルト伯爵はヴェンク検事を訪れて、「私はいかさま賭博をやってしまいました。私より強い何かに強いられてそうしたのです」と告白し、こうしたケースを任せることのできる老練な精神科医を知らないかとたずねる。その時居合わせた客の中で、夫妻にとって初めての客はマブゼ博士だけだったことを聞いたヴェンクは、マブゼ博士に診察を求めるようにすすめる。
一方マブゼは伯爵夫人を手ごめにしようとしている。そこへ伯爵から電話がかかって、診察を求められる。マブゼは翌日の11時に訪ねると答える。翌日伯爵を訪れたマブゼは、たいへん面白いケースなので治療を引き受けると約束するが、条件があるという。「あなたは私が治療している間、家を出ることも、人に会うこともしてはなりません」。そこで伯爵はその指示通りに、召使に「私や夫人のことを訪ねられたら、しばらく旅に出ていますと言え」と命ずる。ヴェンクから電話がかかり、召使は命じられたとおり「ご夫妻は旅行中です」と答える。ヴェンクは不思議に思ったが、伯爵夫妻の危険な状態には気付かない。彼はカロッツァを女囚刑務所に送って、ますます厳しく尋問する。彼女が口を割りそうになったと知ったマブゼは、看守として刑務所に潜り込ませている手下を通じて、カロッツァに毒のアンプルを送る。カロッツァはおとなしくそれを飲んで死ぬ。他方マブゼの子分の一人ペシュも、ヴェンクを事務所ごと吹き飛ばそうとして失敗し、逮捕される。そして厳重な警戒裡に刑務所へ移送される。するとマブゼは左翼アジテーターに返送して労働者酒場に行き、逮捕された革命の殉教者を移送中に奪還しようとアジる。奪還が成功するとマブゼは、手下の一人にペシュを射殺させ、秘密が漏れるのを防ぐ。そうしておいてマブゼはトルト伯爵夫人を脅迫する。「私はこの町とこの国を去るつもりです。私はあなたが私に同行したいかどうか聞きに来たのです」。そして伯爵夫人が彼のものになることを拒んで、「私は夫のところへ行きたいのです」と言うと、マブゼは「今あなたはあなたのご主人に死刑の判決を下したのです」と言う。そして伯爵に向かっては「あなたの夫人はあなたを精神病院へ送ろうとしています。あなたの人生はおしまいです」と吹き込む。絶望した伯爵は混乱してしまい、とうとう剃刀で喉を切って自殺してしまう。
伯爵の死を知ったヴェンクは伯爵邸を訪れ、召使に伯爵夫人はどこにいるかと聞く。召使は「あの不幸な賭博の夜以来、私は伯爵夫人に会っていません」と答える。この謎めいた事件を捜査するためにヴェンクが事務所に帰るとマブゼ博士が待っている。そしてトルト伯爵の死は魔術師ザンドル・ヴェルトマンの催眠術の影響だと説き、ヴェルトマンの実験の興行を訪れて、自分の目で確かめるようにとすすめる。
実験の晩に訪れたヴェンクは、ヴェルマンことマブゼに誘導されて舞台に上がる。そして彼が口にした呪文から、ヴェルマンがマブゼであることを見抜くが、今度はマブゼの催眠術にかかってしまう。封をした封筒の中に書かれているとおりに、「観客席を離れて、戸口の前に止まっている車に乗り、フルスピードでベルク街を経て、シュタインブルック・メリオールへ」走ったヴェンクは、そこで危うく墜死しそうになる。だが彼は部下に、自分から目を離すなと頼んでいたので、間一髪のところで部下に救われる。
ヴェンクはマブゼの家を包囲させる。脱出できないと知ったマブゼは、激しく抵抗して、撃ち合う。ヴェンクは電話でマブゼを呼び出し、抵抗をやめるように説得するが、マブゼは「私は自分が国家の中の国家だと感じている。私が欲しいなら、私を連れに来るがいい」と拒否する。そして「トルト伯爵夫人が私の家にいることに注意せよ」と言う。夫人の命が危険だと知ったヴェンクは、軍隊の出動を求める。軍隊が突入すると、マブゼは伯爵夫人を連れて逃げようとするが、夫人は抵抗してマブゼから逃れる。マブゼは地下のトンネルを通って偽札製造工場へ逃げ込む。だがその工場の鍵を見つけたヴェンクは、マブゼがそこへ逃げたと推測し、部下とともに工場へ急行する。マブゼは工場の入口の鍵を持っていなかったので、外へ出られない。とうとう彼は狂ってしまい、彼の犠牲となったフル、カラ・カロッツァ、トルト伯爵、ペシュの亡霊を相手に賭博をする。彼は負ける。ヴェンクが工場へふみこんだ時、彼はそこに完全に狂ってしまった男、「かつてマブゼ博士だった男」を発見しただけだった。
【解説】
『死滅の谷』に続くフリッツ・ラングの、このサスペンスに富んだメロドラマは、『死滅の谷』以上に直接的に、当時の異常な時代の空気を呼吸している。今日から見ればそうした背景は、すべてこの急迫したリズムの万華鏡という形式を生み出すのに役立っただけであるが、時代の渦中にあった観客は、直接体験との照応に戦慄した。ラングとハルボウの狙いもそこにあったわけで、観客の反応は彼らの思うつぼであった。そこでラング自身、後にこの映画を「ドキュメンタリー映画」だと称している。もちろん現実の再現という意味においてではなく、当時のドイツ人が本能的に感じていた一種の脅威が、一人の人物像に具現されているという意味で、時代状況のドキュメンタリーだというのである。確かに同時代の観客にとっては、映像化されたさまざまな要素が、そうした脅威の可視的な記号だった。俳優の表現豊かな演技、全能の悪という仮像、光に影の不気味な交錯、収拾のつかなくなった時代の精神を視覚化している表現主義的装置…そうした道具立ての効果は満点だった。当時のカタログはこう書いている。「戦争と革命によて掃き寄せられ、踏みつけられた人間は、欲望から享楽へ、享楽から欲望へと急ぐことによって、苦悩に満ちた過酷な年月に復讐している」。映画だけではない。ノルベルト・ジャックの原作が、すでにそうした時代の気分そのものだった。「戦争の帰結は想像力を鎮静させず、むしろそれをかき立てた。何十万という人が次第に無為の生活に馴れてしまっていた。人生はこの何年間を通じて、生死をめぐる宝くじ以外のものではなくなっていた。頭脳と心情はいちかばちかに馴れてしまっていた」。つまり当時のドイツ人の心情は、サスペンスに富んだニヒリスティックなメロドラマにぴったりの状況にあった。
もっとも原作は必ずしもそうした作品ではなかった。もしフリッツ・ラングとテア・フォン・ハルボウが、それを彼ら独特の疑似神話的メロドラマに仕立て上げなかったとすれば、とうの昔に忘却されていたことであろう。原作の主人公は、悪のカリスマ的存在とは似てもつかない小市民でしかない。敵役のヴェンク検事も型通りの能吏で、反動的心情の人物である。小説の舞台もベルリンではなくて、田舎のミュンヘンである。ただエロチックな描写は、ハンス・ハインツ・エーヴァースが当時のドイツの娯楽文学に導入した、通俗表現主義の淫猥なスタイルを踏襲することで、時代の傾向を示している。
こうして映画の方が原作よりはるかに時代の感情に添っていたが、クルト・ピントDスはそれについて次のように評価している。「私のように通例ウルシュタイン・ブックを読まないものは(それゆえノルベルト・ジャックの小説を知らずにウーファ・パラスト映画館に来たものは)、映画『ドクトル・マブゼ』によって、3つのセンセーションを体験することができる。第1に、刺激的な犯罪事件を見る。つまり、運命と人間を操ることが人生の必要事であるような、巨大なスケールの狂信的な犯罪者を見ることができる。第2に、カール・ホフマンの並外れて巧みな、よく鍛えられた(私は敢えてこう言いたいが)きわめて芸術的な写真によって、目が魅惑され、うっとりさせられる。たとえば夜の街路を通る市電で、暗闇から光が疾駆、揺れ、燃えるシーン。悪漢の脅かすような影が、予告するように画面に入ってくるシーン。それはこれまで見たことのない写真技法の革新である。そして第3に監督フリッツ・ラングが、気違いじみたわれわれの時代を、特徴的なタイプと環境に濃縮しようと努めていることである。ノルベルト・ジャックの小説が犯罪者マブゼの像をより多く示しているのに、この自ら不安定なラングは、発明の才、機知、形象構成によって、素早い時代像を繰り広げようとしている。ジャックの小説におけるより以上に、この映画の人物像は精巧に作り上げられて、一つの型になっている。そしてすべての型の人物像が、荒れ狂い、混乱し、腐敗した時代から生み出され、再びこの世界の中に融け込む。たとえば自分の上品な環境から、アヴァンチュールを絶望的に求めている貴族の女性を見てもらいたい。あるいは表現主義で充満した自宅の死んだような部屋で、道楽気分で芸術のドグマにふけっている、無為の優柔不断な男、黒魔術の犯罪者に奴隷のように服している踊子を見てもらいたい。それからラング監督は、最近の年月が過度の興奮、堕落、センセーション、投機という形でわれわれにもたらしたすべてのものを、圧縮しようとし始める。科学的に熟慮された犯罪、乱高下する相場騒ぎ。エキセントリックな賭博クラブ、催眠術、コカイン、放蕩児が逃避する怪しげな酒場。精神的にも性的にも隷属的な、ひ弱な人間。良心の無いのが当然であるような、あの拠り所を失った人々」。クルト・ピントウスの批評自体が、時代の空気そのものの表現である。
表現主義は時代のシンボルだった。ラングは映画の中で、「表現主義をどう思うか」という問に対して、マブゼをしてこう答えさせている。「表現主義は遊戯です。だがそれがどうしていけないのでしょう。今日ではすべてが遊戯です!」つまりこの映画はすべてが遊戯になってしまった世界をテーマとしている。遊戯(賭博)する人としてのマブゼ博士は、遊戯について明瞭な見解を示す。「愛などはありません。欲望があるだけです!幸福などありません。権力への意志があるだけです!」
しかし実際にはこの映画では、「権力への意志」がマブゼの動機とはなっていない。後になればなるほど、遊戯(賭博)そのものが自己目的となり、操作すること自体の快楽にふけっている。労働者をアジって手下を奪還させる時、彼の犠牲者の生死をもてあそぶ時、彼は操作の名人芸によって賦与された権力を楽しんでいる。この映画の奇妙な面白さは、まさにそこにある。もしマブゼが「権力への意志」を仮借なく発揮する悪魔的人物像に過ぎないなら、この映画は不気味でデモーニッシュなものとなったであろう。マブゼが手段を目的と混同することによって、彼の超人的構想の非人間性が、憫笑すべき人間的なものに変わる。それがこの映画を享受できるものにしている。あるいはフリッツ・ラング自身がそうした面白さを享受していたのかもしれない。
いずれにしても封切のプログラムが言うように「このマブゼ博士は1910年には存在し得なかったであろうし、おそらく1930年にはもはや存在し得ないであろう。われわれはそう思いたい。しかし1922年の今は、彼は時代に生き写しの肖像なのである」。「ちなみにこれは、これまでに撮影された最初の本当のギャング映画である。この後10年を経てようやくハリウッドが、人間が車に押しつぶされたり、犯罪者が窓から機関銃で撃ったりする映画を無数に作るのである。そして……、そしてこれらの映画がヨーロッパへ来ると人々は言う、<アメリカの典型だ!>そして、フリッツ・ラングがそういう映画を10年も前にドイツで作ったこと、彼の映画と同じように幻想的で、途方もなく非現実的なベルリンで作ったことをとっくに忘れてしまっている」(『ドイツ映画の偉大な時代』)。
この映画の第1部と第2部は、相互に補い合う関係にある。したがって連続映画のように、2回に分けて上映するのが最も似合わしいやり方だった。しかしアメリカでは2部を1部に短縮して上映したために、それでなくても多岐にわたるこの映画は、いささか理解しにくいものとなった。わが国での封切も短縮版だった。それがこの映画の評価を混乱させる結果となった。にもかかわらず映画は成功した。そのためラング自身が1933年に2番目の『マブゼ』を作っただけでなく、1960年にも『マブゼ博士の千の眼』を作った。1962年には、33年の『マブゼ』がヴェルナー・クリンガーによって再映画化され、「マブゼ博士」は吸血鬼「ドラキュラ」のように、一つの典型としての人間像の位置を占めるようになった。今後も混乱期を象徴する人間像として生き続けるであろう。
【作品評】
「この映画の成功の理由はそのプロットにではなく、エピソード的なディティールにある。全体としての事件の連鎖にではなく、一つの時代を生き生きと表現している個々の事件にある。それはリズムとスピードによって、スタイルと雰囲気によって結び付けられている。ここには舞踏と犯罪、賭博の情熱とコカイン常用、ジャズと警察の手入れの濃縮がある。戦後の重要な兆候で一つとして欠けているものはない。株式取引所、策略、オカルトのいかさま、売春と飽食、密輸、催眠術、表現主義、暴力、そして殺人!
非人間的な人間のこのデモーニッシュな行動には、何の目的も、何のロジックもない…すべてが遊戯である。だが他の人々が賭博を楽しんでいるのに、マブゼ博士は人間の生命、人間の運命をもてあそんでいる」(『ベルリナー・イルストリールテ』紙)。
「この映画は、現在を、仮借なく写し出された現代史を示している。ノルベルト・ジャックの小説はテア・フォン・ハルボウによって、巧みに改作された。しかしヴェーデキント的な光が、不協和でヒステリックな戦後期の間続いている消耗性の死の舞踏の上に、グロテスクな非リアリティの、青光りする白熱を投げかけるように燃やされたのは、まったくフリッツ・ラングの演出のおかげである。彼の手による写真によって、これまで聞いたこともないような表現力が達成されたことは、驚くべきことである(『ベルリンのローラント』、1922年5月4日)。
「このマブゼ博士は、われわれの時代の一種の理想像である。彼は粗野なやり方をする過去のギャング王とは違う。彼が博士であるのは、偶然ではない。そして彼は自分のアカデミックな教育で得た知的な力のすべてを、彼の巨人的な計画を実行するために投入した」(『キネマトグラフ』誌、1922年5月7日)。
「登場した人物がわれわれの時代にとって典型的であるだけでなく、彼らの生活の仕方と彼らの置かれている環境も特徴的であるそれゆえ映画の場景面、そのセット…建築家シュタール・ウラッハとオットー・フンテの驚くべき成果…が、重要な意味を持つ」(『B・Z』紙)。

ドイツ1919〜1931映画回顧展(1995年11月)