ドイツ1919〜1931映画回顧展(1995年11月)
■タルチュフ■■■■■■■■
Tartuffe
1925年/白黒サイレント/71分
スライド日本語字幕付
脚本:カール・マイヤー(モリエールの同名小説の喜劇による)
美術:ローベルト・ヘルルト、ヴァルター・レーリヒ
製作:ウーファ映画
監督:フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ
出演:エーミール・ヤニングス(タルチュフ)、ヴェルナー・クラウス(オルゴン)、リル・ダーゴヴァー(彼の妻エルミール)、ルーツィエ・ヘーフリヒ(ドリーヌ)、ヘルマン・ビバ(枠物語の中のおじ)、アンドレ・マトーニ(甥)、ローザ・ヴァレッティ(家政婦)
【あらすじ】
年とった叔父は、殊勝ぶった家政婦から、不充分な世話しかしてもらえない。彼女が彼のために骨を折るのは、ただ彼の死後、相続財産を手に入れるためである。この目的を達成するために、彼女は甥のことを老人に悪く言い、彼をまんまと廃嫡させる。今や家にいることを禁じられた甥は、叔父を悪賢い家政婦の罠から救い出すために、他のやり方で家に入ろうと決心する。彼は見世物師に変装し、移動映画館でタルチュフ氏の物語を上映する。オルゴンは信仰心の厚い男であるタルチュフと知り合う。タルチュフは悪徳と堕落を非難し、救いを得るために全財産を貧しい人々に遺贈するようにと、オルゴンをそそのかす。オルゴンは崇拝するタルチュフを、自分の家へ連れていく。しかしエルミール夫人も娘のドリーヌも、タルチュフ氏の「高徳」を納得しようとしない。オルゴンが貧しい人々のために遺言書を作成し、タルチュフにその人達のために管理してもらおうとする財産の名義の書き換えをしようとした時、エルミール夫人は、夫にその友人の悪意を確実にわからせる方法を考え出す。タルチュフとのラブシーンを彼女は準備し、それをオルゴンにカーテンの陰に隠れて目撃させようというのである。タルチュフはオルゴンを見つけ、これは罠だと信じる。オルゴンは友人の礼儀正しさをすっかり信じ込み、引き上げて行って、遺言書を最終的に完成させようとする。その時ドリーヌが彼をさえぎる。そして今はエルミールと2人きりだと思っているタルチュフが、妻に近づいて不道徳な申し出をするのを、鍵穴越しに見るようにオルゴンを強いる。今やオルゴンは納得し、悪い友人を家から追い出す。映画上映の後、家政婦はついうっかり自分の意中を漏らしてしまう。彼女の袋の中に甥は、毒薬のびんを見つける。彼女は年とった主人の飲物に、そこから毎日数滴を入れていたのである。若者は自分の仮装をとり、この悪者の正体をあばく。叔父は家政婦を家から追い出す。
【解説】
ロッテ・アイスナーによって、彼女の著書『ムルナウ』の中に引用された、カール・マイヤーのシナリオの指示。
全景:かの邪悪な人物
 いやらしくその人物はだんだんとドアの方へ後退して行く。今、その人物は立っている。
拡大:二足の靴を見ている。
最大限:むかしの貴人のように、すっとそこに立つ。 そして今!
拡大:その足が靴の片一方を放り出す
 怒り狂って。そして今その人は聞く
ロッテ・アイスナーはその著書『デモーニッシュなスクリーン』の中で、こう書いている。「…このムルナウの映画において驚嘆に値するのは、衣装と周囲の調和である。時折タルチュフの黒い苦行僧の衣装が、遠いなめらかな風景から際立って見えてくる。あるいはこの風景の前に、黒っぽいレースによって形を与えられたサテンの服が鈍く光る。高いところから下がっていて、ひだをたっぷり取ってあるカーテンのビロードの輝きの前で、ベッドカバーの金銀細工が浮き出て見え、部屋着の柔らかさを効果的に見せている。そしてそうした香気のすべてがなお一層はっきりするのは、タルチュフを演ずるヤニングスの田舎くさいがさつさが突然それを破り、レースのついたベッドの上で無作法にのびをする時である…」。
1926年の「映画技術と映画産業」第4号から。「…彼はフランスの喜劇のハンドルンクを、エピソード的なところはすべて無視し、本質的な要素は過度に強調して、映画的にそして現代的な効果を持つように改造してしまっている。彼は全体を包む枠を作ったが、そのために全体が決定的にむずかしくなり、直線的な彼のリズムに悪い影響を与えてしまったようだ…。しかしここでそうしたことに関心を示すのは、二の次にすべきである。と言うのは最終的効果の点では不確かなこの処理の仕方は、前もって意識した、実験的性格を持っていたらしいからである。彼は…劇映画においては初めて非常に明瞭に…一つの傾向を、あるいは作者によってはっきり述べられた教訓を、ラジカルに強調すべきだった。したがって彼は、映画芸術作品の主観的な可能性をも、はっきりと強調すべきだった。それはカール・マイヤーの創作から、だんだんとますますはっきり読み取れる。無条件に尊重に値する一つの意図である…」。
1926年の「キネマトグラフ」第989号から。「…根本的主題しか残されていない。この作品は、いわばカール・マイヤーの映画であるかのように、フランスの詩人の理念に従って自由に映像そのものとして見るのがよい。先取りして言えば、これは俗受けする映画ではなく、流行歌的作品でもなく、商業映画でもなく、おそらく全く独特な形を与えられた芸術作品である。ほとんど身勝手な作り方と言いたいぐらいだ。いわば古典的ドラマを現代様式に翻訳したものであり、構成、舞台装置、解釈が現代的なのである…」。

ドイツ1919〜1931映画回顧展(1995年11月)