ドイツ1919〜1931映画回顧展(1995年11月)
■カリガリ博士■■■■■■■
Das Cabinett des Dr. Caligari
1919年/白黒サイレント/50分
スライド日本語字幕付
脚本:カール・マイヤー、ハンス・ヤノヴィッツ
撮影:ヴィリー・ハーマイスター
美術:ヴァルター・レーリヒ、ヴァルター・ライマン、ヘルマン・ヴァルム
製作:デークラ映画
監督:ローベルト・ヴィーネ
出演:ヴェルナー・クラウス(カリガリ博士)、コンラート・ファイト(チェーザレ)、リル・ダーゴヴァー(ジェーン)、フリードリヒ・フェーエル(フランシス)、ハンス・ハインリヒ・フォン・トDヴァルドフスキー(アラン)、ルードルフ・レッティンガー(医師)
【あらすじ】
フランシスが精神病院で1人の患者に自分の物語をしている。彼はその患者に、医師カリガリについて、次のような話がある…。見世物小屋の持主カリガリは1人の霊媒、夢遊病者のチェーザレを自由に操り、この男は彼の命令に従って人を殺すのである。そこで営業の申告をしようとした時、カリガリを横柄に扱った市役所の書記は、翌日刺し殺された姿で発見される。フランシスとアランは年の市で楽しんでいる。チェーザレはアランに、死が間近いことを予言する。それに驚愕した2人の友人はジェーンに出会う。彼らは2人とも彼女に夢中になっている。翌日フランシスは、アランが殺されたと聞く。ある札つきの犯罪者が、殺人犯として暴かれ、拘留される。しかしフランシスは、カリガリとチェーザレとの間に秘密の結びつきがあるのがわかったと思う。ジェーンは年の市でカリガリに出会い、カリガリは彼女にチェーザレを見せる。驚いて彼女は逃げる。次の夜チェーザレは、ジェーンの寝室に忍びこんで、彼女を殺そうとする。ジェーンは目を覚まし、助けを求めて叫ぶ。カリガリのチェーザレに対する催眠術の呪縛が、その力を失う。ジェーンに対する情熱が、殺す意志よりも強いのである。彼はジェーンを一緒に引きずって行き、フランシスと彼女の父親があとを追う。カリガリの催眠術がもはや効かない。疲れ果てたチェーザレは、くず折れて死ぬ。フランシスはその間に、警察の助けを借りてカリガリの移動ワゴンを捜索し、チェーザレの代りに布製人形を見つける。カリガリはフランシスに追いかけられて、ある精神病院に逃げ込む。フランシスは、カリガリが殺人犯だと医師たちに誓って言う。死んだチェーザレを突きつけられると、カリガリはくず折れて、気が狂う。彼の書物の中に医師たちは、夢遊病に言及した箇所を見つける。さまざまな奇妙な事件のために、友人が死んだ時に正気をなくしたフランシスは、この瞬間、自分を扱っている医師がカリガリであることに気づく。カリガリ博士は、フランシスの狂気の原因が何であるかを知り、彼を治療しようと試みる。
【作品評】
1920年の「キネマトグラフ」第686号から。「…ベルリンはもう一つ新しいキャッチフレーズを持った。『カリガリにならねばならぬ。』というのである。数週間前から、このいわくありげな提言的命令が、あらゆる広告主から、人にわめきたて、あらゆる日刊新聞の欄から飛び出す。消息通たちは『あなたももうカリガリですか?』と、たずねる。以前『あなたは多分マノーリでしょう?』とたずねたのとほぼ同じように。そして『映画になった表現主義』とか『狂気』とかが、うわさの種となった。さて今やそれが、この最初の表現主義映画が上映されている。そしてそれが精神病院で演じられるという点を除けば、何も狂気の要素を見つけることができない。人が現代芸術に対してどのような態度をとろうとも、この場合はそれは、明確にその資質がある。狂った精神の病的な妄想は、これらのゆがんだ、奇妙な幻想的な映像の中に、最高度にまで高められた表現を見出している。世界は狂人の頭の中では違った様相を呈し、彼の幻想の人物たちが、部分的には幽霊のような形をとっているように、彼らがその中を動いている環境も奇妙な相貌を呈する。三角形の窓やドアのあるゆがんだ部屋、非現実的に曲がりくねった家、こぶのような横丁…。ハンドルンクはハラハラさせ、多くのシーンは直接的に人の心を魅惑し、行き詰まるような効果をそなえている。たとえば、殺人のシーン。その場合取っ組み合っている人達の影しか見えない(ついでながら技術的にも素晴しく成功した映像である)。あるいは狂人の花嫁の夢の体験。その中で彼女は夢遊病者に取り押さえられ、屋根越しにめまいするほど狭い道を引きさらわれていく。精神病院の中庭の最終場面も、非常に印象深い効果を示す。そこでは狂人が狂乱の発作を起し、拘禁服でおさえられる。フリッツ・フェーエルはこの狂人を、すばらしい身振りで演じている。一般に共演者全員と演技の出来映えは全く抜群である。カリガリ博士の幻想的な扮装をしたヴェルナー・クラウス、それはそう簡単には真似のできない逸品である。クラウスと並んで、全く不気味な印象を与える夢遊病者に扮した、コンラート・ファイトの悪魔的な類型。神経質な人なら、そのために夢の中でうなされるかもしれない。狂人の花嫁は、やさしい美しさをそなえたリル・ダーゴヴァーが扮している。あまり重要でない役でも、ルードルフ・レッティンガーと、有名な詩人であり朗読者であるハンスハインツ・フォン・トDヴァルドフスキーは、すばらしい。ローベルト・ヴィーネは、いつものように手馴れた監督ぶりを見せ、画家ヴァルム、ライマン、レーリヒと一緒に、輝かしい写真による描写に支えられて、強い印象を生み出している。デークラ映画会社はこの最新作品によって、映画芸術がまだ行きづまってはおらず、更に発展する新しい、未知の可能性に向かって開かれていることを証明した。
この映画の飛躍を作り出すものは、新鮮さ、思いきった大胆さの雰囲気、不意うちの魅力など、あらゆる要因が協力して発揮された根源的なエネルギーである。熱病の夢が、使い古されていないまったく新しい手法によって意識的に芸術圏内に組み入れられる。狂暴な時代に封切られたこの映画は、まるで熱病夢の効果を与える。暗い街路、かなたから響いてくる命令調の号令、どこかからの街頭演説家の甲高い叫び…そして背景には、街の中央の地区が深い闇から浮かび上がり、急進的な扇動者たちによって占領され、銃の破裂音、一連の兵隊、屋根からの射撃、手榴弾…。詩の痛跡がこの映画の中にある。このカリガリ博士は、E・T・A・ホフマンの夢を実現している。彼は故郷も目的もない神秘的な男で、いつもそこにいて、人間に悪魔の麻薬をすすめる。ある決定した意志のないデモンであり、ひとつひとつの身振りに何か不可解な正体不明なものがあり、ひとつひとつお辞儀をしながら上布のポケットに眠っている毒薬に横目を使っている。そして妖怪的な幽霊に、純粋な獣性が具体化されている。月夜彷徨症患者の夢遊病的正確さ、あらゆる芸術概念を超えた彼岸、ただ、手があり、ただ行為があり、ただひと突きがあるだけだ。監督ローベルト・ヴィーネは、人物を、構成の枠に精神的に適合するようにつとめている。すなわち、心理のない人物、動機を感じられない行動者、単純に激動する力であっても、その歯車が頭脳のなかに見えない人間にしている。
ヴィーネは、彼の協力者たちが提供した技術的に構成された世界の中に有機的な材料を組み込む努力を払っている。彼は、俳優の有機的な形態を、いわば建築の形式部分のごとく作用する仮面で現わすところまでは、やらなかった。したがって、ちがった原理によって構成された2つの世界が衝突している。有機的なものが、数学的に形成されたものと接触してその統一は不可能にみえるのである。ヴィーネの演出は、この分裂の厳しさを和らげ画家的なニュアンスを見出して、場面の気分でバランスをとっている。
この気分に基づいて画家たちは、造形している。表現主義の装飾的効果が、非常に正確に感じとられている。『表現主義の演劇・映画』(河出書房、320ページ以下)


ドイツ1919〜1931映画回顧展(1995年11月)