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H.V.S通信 vol.21 1998年(平成10年)5月
タイミングにまつわる
いくつかの話
先日、国際結婚してアメリカに住む友人夫婦がヨーロッパ旅行の途中私の家を訪ねてくれた。彼女らはともに大学院の入学試験を終え、結果を待つ間の旅であった。1週間ばかり、ここに滞在した後、「たのしかったよ!」と言って帰っていった。
お客さんのこの一言は嬉しい。殊に私にとっては。ここへ来てがっかりする人は少なくないのだ。イメージに描いていたメルヘンの国ドイツとはほど遠い、工場とビルの連立する風景に「こんなものか」と帰っていく。しかし彼女らが来たときはちょうど、カーニバルだったので、ビールを片手に歌い、踊るドイツ人達にたくさん会うことが出来た。そして、カーニバルの連休を利用してお隣の国ベルギーへでかけた。
ベルギーはブリュージュの郊外、ダムと言う小さな町の民宿に泊まった。そこは、農業を営む傍ら、民宿もやっているという家庭である。部屋から見えるのは見渡す限りの牧場地とポプラの並木。私たちは少しの散歩の間に馬、アヒル、鶏、牛なんかに会うことができた。あと、この家の一員である犬のバスくんにも。
家屋は築300年とオーナーが語ると友人の旦那さんは「合衆国よりも歴史がありますね」と笑って言った。時間がゆっくりすぎた。たった一晩の宿泊だったが私たちはかなりリラックス出来ていたと思う。
こんな体験を指す言葉があったな、と思ったのだけれどそのときは思い出せなかった。
今になって思うにそれは“魂の洗濯”という言葉だろうと思う。この旅行前、少し私は疲れていた。理由は簡単に言えば、理想と現実のギャップ。だれにでもあることだ。そんな折の彼女らの来訪とこの旅行、実にいいタイミングだった。
友人のいた一週間、一年間会わなかった空洞を埋めるかのごとく私たちはよく話をした。それは決まって夕食後、一杯はいってからのこと。
ある日、話題が今、読んでいる本のことになった。彼女はこの旅行を利用して、一 冊の本を読んでいた。大江健三郎の「人生の親戚」である。題名から全く内容が思い 浮かばなかったので聞いたところ、ある耐え難い悲しみを経験した女性の半生を追っ たもので、題はスペイン語でインディオの女達が悲しみのことをこう呼びなしている というところからつけられたものであることが判った。
興味を示した私に彼女は本を置いていってくれた。その後、2週間ほどかけて私はこの本を読み終えた。2週間、通勤時間と少しの空き時間を利用すれば大抵の本は2 、3日で読んでしまう私がである。読み終えた後、私は彼女の読後の感想と私のそれ が異なっていることに気がついた。
彼女はこの物語を“ひとは、大事な者をうしなったときどのようにしてそれを乗り越えていくのか、その過程。”として読んでいた。私の方は、この主人公の生き様に心を惹かれ、物語を“ひとりの女の生き方”として読んでいた。実際、現実に彼女は 少し前に祖母を亡くしていた。多忙な時期で、あまり病室にも顔を出すことが出来なかったということから来る後悔の念が今も彼女の中にあったようだ。一方私はこちらに来てちょうど一年。今まではとにかくやってきたけれど、これからどうするべきな のか、などとふと立ち止まって思案していた時期であった。本は読む時期によってあらゆる答えを投げかける。そう、改めて思った。タイミング、の違いである。
二人が発つ前の晩、みんなでスペイン料理を食べに行った。帰れば、二人とも結果を待つ受験生の身に逆戻りである。「現実が待ってるなぁ。」そんな二人に「人事を尽くして天命を待つ、だよ」と何気なく言ったら、偉くその言葉を気に入ってメモにとっていた。
最後にひとつ。手紙について。なぜこんなにタイミングよく来るのだろうか?そんな手紙はよくある。迷っているときに来た一通の手紙に背中を押されたり、どうしているだろうか?と思ったその日にポストを開ければ一通の手紙があったり。
いろいろなものにタイミングがある。不思議なことに私は“ちょうどういいタイミング!”と思うことがとっても多い。
思えば、ここで仕事をすることになったきっかけも実は本当に“いいタイミング!”としか言えないものだったのだ。
4月で私も25歳になった。今年もいいタイミングであらゆることのチャンスが訪れることを祈りつつ、そのタイミングを逃さないように前向きに!と自分自身にはっぱをかけてみた。
(網本友加/HVS)
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