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H.V.S通信 vol.24 1998年(平成10年)10月

 
 
山田和夫 インタビュー
 
       
   
 
 碧水ホール企画上映「ロシア・ソビエト映画祭」と「1930年代ニューウェイブ」の合本テキストに掲載されます。 
 
プロフィール■やまだ かずお 
1928(昭和3)年大阪生まれ 
映画評論家。「エイゼンシュテイン全集」を監修、著書に「ロシア・ソビエト映画史-エイゼンシュテインからソクーロフへ-」など多数。今秋、エイゼンシュテインについての新しい本を出版予定。また、『戦艦ポチョムキン』日本初公開や、1996年から全国巡回している日本未公開作品を特集したロシア・ソビエト映画祭など、映画を論じるだけでなく、映画公開においても貢献されている。 
 
 
___今回上映するロシア・ソビエト映画は日本未公開作品ばかりです。これらの映画とどのようにして出会われ、そして公開にこぎつけられたのか、その経緯をお聞かせください。 
 
 1995年が、映画生誕100年ということですね。1895年の12月28日に、パリでリュミエールのシネマトグラフが公開されたました。それから半年もたたない1896年の5月にロシアでリュミエールのシネマトグラフが公開されています。つまり、1996年がロシア映画生誕100年となるのです。ですから、その両方を記念して、日本でロシア・ソビエト映画祭というものをやりたいと思ったわけです。その中心になったのは、1990年にできたエイゼンシュテイン・シネクラブ日本です。このグループはソビエトが生んだ世界的な映画人であるセルゲイ・エイゼンシュテインを勉強することからはじまり、世界の映画を研究していこうとするグループなんです。ロシアの郊外にゴスフィルモフォンド、日本語に訳せばロシア国立映画保存所があるのですが、ここはスケールで言うと、世界最大のフィルムライブラリーなんです。そこへ、私と何人かの仲間と一緒に行って、一週間ほど泊り込みました。そして日本で見ることのできない、そもそもの初めのロシア映画から見せていただいたわけです。ロシアでできた最初の劇映画というのが、今度公開される『ステンカ・ラージン』です。帝政ロシアの映画というものは、つまり革命前のロシア映画というのは、日本でも何本か上映されていますが、今私たちはまったく見ることができないし、『ステンカ・ラージン』のような作品は日本に来たことがまったくありませんでした。今回日本で公開できたのは4本ですが、ぜひ帝政ロシア時代の映画を日本に紹介したいと思っていました。それから、ソビエトになってからも、実は日本で公開されていない映画の中には、世界的に注目されている映画が何本もあるわけです。1930年代になりますと、スターリンの時代であったということと、日本も軍国主義の時代だったので、ソビエトの映画がほとんど入ってこない時代でした。そういう30年代にも、かなりおもしろい映画があると、泊り込んで連日たくさんの映画を見せていただいたときに発見しました。それらの中から15本を選び、ゴスフィルモフォンドでニュープリントを焼いていただき、日本へ送っていただいて、上映できるようになったんです。 
 碧水ホールで上映されるプログラムでは、ロシア最初の劇映画である『ステンカ・ラージン』、そして世界的にも最初の人形アニメーションだといわれているスタレーヴィチの『カメラマンの復讐』、この2本が帝政ロシア時代の映画になります。それから『ベッドとソファ』、『メアリー・ピックフォードの接吻』2本、これがとてもおもしろい映画なんですけれど、これらは革命後の20年代の映画から選びました。 
 そして1930年代に入る前に、エイゼンシュテインが、当時助監督だったグリゴリー・アレクサンドロフ達とヨーロッパあるいはアメリカを歴訪した時期があります。彼らには、その途中の1930年にフランスで撮った短篇がありました。それが『センチメンタル・ロマンス』なのですが、これはエイゼンシュテインはごく一部しかタッチしていないのですが、トーキー初期の実験映画としてたいへん貴重な作品です。 
 1930年代に入りますと、スターリンの時代になって、国家統制が厳しくなります。今回上映される『バザール』というアニメーション作品は、今はごく一部しか残っていないのですが、これは当時上映禁止になっており、数年前にやっと陽の目を見ることになりました。同時に30年代はアメリカのミュージカル映画に学び、ロシアの民族音楽とを巧みに結び付けたソビエト・ミュージカルという映画がありました。そのうちの傑作と言われている『ヴォルガ・ヴォルガ』『サーカス』さらには『アコーディオン』の3本を持ってきました。これらは、ソビエトにもこんな時代があったのかと驚いていただけるようなものばかりだと思います。 
 実は、私たちは現地で3倍ぐらいの本数を見たんですが、予算の許すギリギリの範囲で、15本の映画を持ってくることができました。第2回目のプロジェクトとしては、来年の後半になると思いますが、今度はロシア・ソビエトの知られざるアニメーションの世界を見てもらおうと考えています。実は去年もゴスフィルモフォンドに行きまして、ロシアの最も初期のアニメーション、スタレーヴィチのたくさんの傑作を含め、50本ぐらいのアニメーションを見てきました。 
 
___今回初めて日本で見られるこれらの映画をみて、ロシア・ソビエトとアメリカがこれほど映画を共有していたのかとショックを受けました。とくにミュージカル映画は、それまで文献などでは日本でもわずかながら紹介されて知ってはいたのですが、一番の衝撃でした。 
 
 たとえば、20年代の『メアリー・ピックフォードの接吻』は、淀川長治さんに「淀川さん、メアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスが出てるソビエトの映画って知ってる?」ってお話ししたら、アメリカ映画については百科事典みたいな淀川さんが『えぇ!そんなもんあるの?」なんてビックリされてました。メアリーもダグラスもニュース映画のつもりだったのでしょうが、1年たったら劇映画になっていた。それがおもしろいものに仕上がっていたのですね。あの時代、ロシアの人達がどれだけアメリカ映画に夢中だったかがわかる映画ですね。たまたまモスクワの撮影所にやってきたメアリーとダグラスに、一人のファンが接吻までしてもらって、ほっぺたにキスマークが残ると、今度は大勢のファンが追っかけ回すという。 
 
___本当は、メアリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスは映画に出演するつもりでモスクワに寄ったのではなく、新婚旅行だったとか。 
 
 そうです。新婚旅行で6月にベルリンに到着すると、ちょうど『戦艦ポチョムキン』が上映されていて、それを見て、彼らは非常にビックリするわけですね。それでこんなすごい映画をつくっている国へ行きたいと、急遽予定を変更して7月にモスクワへ行くのです。そして監督であったエイゼンシュテインに会って、アメリカへいらっしゃいと招待します。後にエイゼンシュテインらもハリウッドへ行くことになるんですが。そういうきっかけがあって、ハリウッドの映画人とソビエトの映画人が交流し、モスクワの観客からもメアリーとダグラスは大歓迎をうけます。ソビエト側はニュース映画を撮り、また彼らの撮影所訪問の際に3時間だけ自由に撮ってもいいよ、ということでメアリーは「このシーンも撮り、男に接吻してくれ」と言われて本当に接吻する。それが映画に使われたんですね。 
 
___当時『メアリー・ピックフォードの接吻』はソビエトで公開されたのでしょうか? 
 
 えぇ、ソビエトでは公開されたんですが、たとえば、アメリカではメアリー・ピックフォードの回想録が出ているんですが、この映画のことは一切触れてないんですね。たぶんね、あとで困ったんじゃないかなぁ。本人たちはいいんだけど、もうスーパースターですから、ただで出演したなんてことが知れたらえらいことですから。 
 
___もう彼らは、すでにユナイテッド・アーティスツをつくってますよね。 
 
 そうそう、チャップリンとグリフィスと一緒にね(ユナイテッド・アーティスツは1919年に設立されている)。特にアメリカは版権にうるさい国ですからね。ペレストロイカ以降になって、アメリカにもフィルムが送られており、今はアメリカでも上映されるようになりました。ですから『メアリー・ピックフォードの接吻』を通して、当時はハリウッドの人達は『戦艦ポチョムキン』を見てソビエト映画に関心を持っており、一方、ソビエトのエイゼンシィテインやクレショフやプドフキンという当時の第一線の映画人達はたいへんなアメリカ映画ファンで、アメリカ映画を徹底的に勉強したということがわかるのです。レーニンが死んだのは1924年ですけれども、1920年代後半までは同じ様なポリシーが敷かれていて、けっこうリベラルだったわけですね。 
 
___レーニンもスターリンもかなりの映画好きだったようですが…。 
 
 そうなんですね。レーニンはたいへんな映画好きで、自分が病気になってからでも死ぬまでずっと映画を見ていたという。ただレーニンがスターリンと違うのは、レーニンは劇映画だけでなくニュース映画とか記録映画などを非常に大切にし、科学映画を特に大切にしたんですね。そして世界で最初の国立映画学校を革命後からわずか2年の1919年につくってるんですね。イタリアの映画学校ができたのは1930年代半ばですし、フランスは40年代のレジスタンスの中でできるわけですから、レーニンという人は非常に早い時期に映画学校をつくったことになります。 
 スターリンの場合は、映画が好きなのはいいんだけど、自分が気に入らない映画はすぐカットしろだの上映をやめろだのという、自分の好みで芸術を支配しようとしたんですね。 
 
___今回上映する『バザール』というアニメーション作品は、当時は公開禁止になったということですが、どのような内容が公開禁止やカットの対象となったのでしょうか。 
 
 これはアメリカ映画との関係でとっても重大なことなんですけど、実は20年代のアメリカ映画熱というものは、ソビエトの映画人が徹底的にアメリカ映画を学び、それをさらに発展させたんですね。ところが30年代にスターリンが映画を完全に統制するという時期になった。実は、スターリンもアメリカ映画が大好きなんですね。アメリカ映画で『映写技師は見ていた』(1991年/アンドレイ・コンチャロフスキー監督)というのがありましたが、その映画でも描かれていたように、スターリンはアメリカ映画をしょっちゅう見ているんですよ。彼はジョン・フォードの西部劇なんか大好きでしたし、こういう映画をつくれと指示しているわけだけど、スターリンの手下であったボリス・シュミアツキーという映画大臣がヨーロッパやアメリカの映画界を視察して、その結果、ハリウッドがやはり能率的にたくさんのいい映画を作ってるということに感心して、ソビエトにもハリウッドをつくろうという夢の建設プランができるんです。それと同時にアメリカのような大衆のための娯楽映画というものを奨励した面があるんですね。それで、エイゼンシュテインの助監督だったグリゴリー・アレクサンドロフはエイゼンシュテインと一緒にアメリカにも行ってるし、英語もペラペラだし、アメリカ映画のことを非常によく勉強しているわけで、彼が『陽気な連中』という1933年に初めてのミュージカル映画を撮ってそれが大ヒットして、いわば30年代のハリウッド的ソビエト・ミュージカルのチャンピオンになるんですね。彼の他にはイーゴリ・サフチェンコという、この人はパラジャーノフの先生だけれども、あるいはエイゼンシュテインの弟子のひとり、イワン・プィリエフという戦後『シベリア物語』(1947)『カラマーゾフの兄弟』(1969)などを撮った監督も、実は30年代にはミュージカル映画を撮ったスター監督だったんです。もともとロシアの人というのは、踊ったり歌ったりは伝統的に高い才能を持っていますから。 
 
___ミュージカル映画は、うってつけのジャンルだったんですね。 
 
 そうですね。作り方はアメリカから勉強しているけれども、アメリカとは違った味が出ているわけでね。踊っても歌っても逸品だし。『ヴォルガ・ヴォルガ』などは、演技的にはみんな勝手に踊ったり歌ったりしているのだけれど、みんなたいへんなタレントばかりです。相当派手な笑いもあるし、シナリオもアイデアもおもしろいですね。ということで、30年代はイデオロギー的には統制がたいへん厳しいんだけれど、同時にアメリカ映画的な娯楽映画が奨励されたということですね。 
 そこでもうひとつ問題が出てくるのは、アニメーションの分野です。1935年に1回限りのモスクワ国際映画祭が開かれており、その時第3位に選ばれたのがウォルト・ディズニーの『シリー・シンフォニー』なんです。これは1933年からディズニーがアメリカでつくりはじめた世界で最初のカラー・アニメーションのシリーズなんですね。「シリー」というのはバカという意味なんだけれども、「森の水車小屋」とか「三びきの小ぶた」だとか、いろいろある短篇なんですが、みんなすばらしいんです。これらの何本かが映画祭に出品されて賞をとるわけです。 
 そこでソビエト・アニメーションというものは、ディズニーを模範にすべきだということになったんです。映画大臣のボリス・シュミアツキーは、ディズニーのようなアニメーションが大衆に一番愛されると、だから余計な実験はやるな、難しいスタイルのものはやるなということだったんですね。つまり『バザール』が上映禁止になったのは、ディズニー・アニメーションのスタイルからはずれちゃってるからなんです。内容だけでなく、上から指令された公認のアニメーション・スタイルとは違う実験的なアニメーションだったということなんですね。当時「社会主義リアリズム」という創作方法が型通り公式として押し付けられてきて、せっかくのいい作品がつぶされていったということがたくさんある。そのひとつの事例が『バザール』なんですね。 
 ところで、エイゼンシュテインは昔からディズニーのファンで、ハリウッドに行ったときからディズニーとも親しくなっており、ディズニーが書いた漫画ももらってるんですね。エイゼンシュテインはユニークなウォルト・ディズニー論も書いてるぐらいです。 
 今年の11月にロシアのアニメーション作家、ユーリー・ノルシュテインが来日しますが、彼はエイゼンシュテイン生誕100年ということで来るわけです。そこで彼は「エイゼンシュテインとアニメーション」という講演をやってくれる予定です。ノルシュテインはエイゼンシュテインの『イワン雷帝』のことをスーパー・アニメーションだと言ってます。 
 
___上映禁止だった映画が今やっと見られるようになった。というかこれだけの時間が必要だったということでしょうか。 
 
 当時、上映禁止されたりカットされたりしても、それを大切に守ってきた人達がいるんですね。いくら廃棄処分にしようということになっても、隠してたりとか。30年代以降スターリンの時代になってからソビエト映画は全然駄目になっちゃったと、暗黒時代だというふうに一面的に言うことは正しくないし、それは、たとえば『ヴォルガ・ヴォルガ』や『サーカス』などを見れば、実にのびのびとつくられていることがわかります。 
 
___『サーカス』は、今劇場でロードショーされてもウケると思うんですけど。 
 
 最後のスターリンの肖像画をかかげてデモをやる場面がひっかかるぐらいだと思うんだけど、あの映画で歌われているのは有名な「祖国の歌」で、ソビエトほど自由な国はないなんて歌われるのはね、今若い人達が見たらちょっと違和感を感じるかもしれないですけどね。ただ、当時は国民が圧倒的にそう思ってたわけですからね。一番おもしろいのは、『ヴォルガ・ヴォルガ』や『サーカス』、戦後の『シベリア物語』が今のロシアでも、たとえばテレビでも最大の人気番組なんですね。だから、これらの映画は愛されてたし、今も愛してるわけです。今晩テレビで『ヴォルガ・ヴォルガ』があるとなると、もう早く家へ帰ってテレビを見ようというぐらいの伝説的な映画になっています。そういう映画がこれまで日本に紹介されなかったんです。 
 
___伝説といえばアブラーム・ローム… 
 
 アブラーム・ロームも、本当に日本に全然紹介されてこなかった監督なんですけど、『ベッドとソファ』は戦前にヨーロッパやアメリカでもたいへん有名になって、Bed and Sofa という英語題名が逆輸入されたものです。原題は第三メシチャンスカヤ通りという、街の通りの名前なんです。20年代というのは革命的な映画がたくさんつくられたんだけど、同時に家庭生活の異性間の問題のこともちゃんと描いていた映画で、またこんにちのフェミニズムにつながるような女性の自立というテーマもちゃんと打ち出されています。 
 
___これはハッとしました。今の日本のためにつくられた映画みたいで。 
 
 そうです。新しいですよ。それに1926〜27年頃のモスクワの実景がいっぱい出てくる。だからあれは劇映画だけど、モスクワの街頭の風景だとか、ボリショイ劇場の前の風景だとか、今はちょっと見られないですね。 
 
___劇映画でありながら、その時代をドキュメントしてますよね。 
 ところで、エイゼンシュテインのフィルモ・グラフィーとして『センチメンタル・ロマンス』は、これまで全然紹介されてきませんでしたよね。 
 
 そうそう。これはね、いろいろあるんですよ。(笑)実はエイゼンシュテインは名前を貸しただけだと言われてたし、私も事実そう言ってたことがあったんです。それで、『戦艦ポチョムキン』に狂ったひとりのルイス・ブニュエルがパリにいたとき、これは「映画ーわが自由の幻想」というブニュエルの自伝に書かれていますが、ちょうどパリに来ていたエイゼンシュテインと親しくなり、ブニュエルは、エイゼンシュテインが撮影所で『センチメンタル・ロマンス』を撮ってるところを見たと言ってるんです。 
 
___ブニュエルが証人なんですか! 
 
 ええ。まあ『センチメンタル・ロマンス』はアレクサンドロフが小遣い稼ぎにスポンサー映画を見つけてきたんですね。でエイゼンシュテインに名前を貸してほしいというんでエイゼンシュテインは名前を貸したと。でもエイゼンシュテインもやっぱり自分もやってみたい、初めてのトーキー映画の実験をやりたい、ということで、20分の作品のうち最初の8分は、彼が編集してるんです。ものすごいフラッシュ・バックが出るところなどがそうですが、まさにこんにちの音楽のビデオ・クリップのようなことをやってるわけです。こういうことは、ペレストロイカ以降いろいろな資料が出てあきらかになってきたんですね。だから、これは、やっぱりアレクサンドロフの名前だけでなく、やはりエイゼンシュテインも関わっていたということも付け加えないと正確ではないということになってきたんです。それで、この映画も日本に持ってきたんですよ。 
 
___ブニュエルのおかげで!しかし、ブニュエルって不思議な人ですねぇ。 
 
(笑)おもしろいでしょ。 
 
 
 

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e-mail michio@jungle.or.jp(中村道男)