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H.V.S通信 vol.26 1998年(平成10年)12月
「これは何処の
ステップか?」

僕の体は音楽がかかると、結構よく反応してくれる。踊りが上手だとはまったく思わないけれど、機嫌がいいと本屋の有線放送に合わせて体が動いてしまう。そうやって一人で怪しい時を過ごしているだけなら何とも思わないのだけど、例えばインドネシア人の友達なんかが事あるごとにインドの音楽をかけて踊るのを見ると、彼らの独特のステップが羨ましく見えてしまう。真似するんだけど、何か違う。余談だけどインドネシア人の彼がどうして自分の国の音楽でもなく、ましてや「西洋」の音楽でもなくてインド音楽を選ぶのかよくわからない。あっちの方には僕のよく分からない音楽地図が出来上がってるみたいだ。この前「南の唄・北の歌」を見た時もそういう羨ましさを感じた。当日あの場にいた人なら覚えていると思うけど、安里さんの歌に合わせて沖縄の人達?が側で踊り始めた。あれが演出だったのか知らないけれど、とにかく彼らは楽しそうに踊っていた。僕は下手ながらも一緒に踊りたいと思ったけど、恥ずかしさ以上の近づけない「壁」を感じて何も出来ず、ただ座って眺めてるだけだった。体を左右に揺らすだけだった。
日本人をことさら強く意識することは、海外にいない限りなかったことなのに、最近独特のリズムやステップに触れるたびに、自分の踊りはいったい何だろう?、これは日本人のものと言えるのか?このステップは誇るべきものなのかと考えてしまう。僕は職業的ダンサーでも何でもないからこんな疑問を抱え込んでもどうしようもないのだけれど。舞踊や能に「日本のリズムや動き」があるとは思う。でも、それは今では鑑賞するだけのものであって、僕のテップ、今の日本のリズムなのかわからない。理解するのと、実際に自分がやるのとは違う。「あなたがそうする以上、それはそのまま今の日本人のリズムだ」。そうかもしれない、じゃあ、僕はあの沖縄の人々のようにそれを誇りにして踊ることが出来るだろうか。今の動きになんらかのぎこちなさを感じている以上、とてもそのようには思えない。日本までいかなくても、僕の地元に僕を満足させてくれる伝統的な踊りがあるか?あったとしても、それは僕の前からは消滅してしまってる。
題名を忘れたけれど、前に読んだ本の中でアメリカからジャズのバンドを連れて来て小学生の前で演奏させた話がのっていた。主催者の計画では、バンドのメンバーが途中で舞台を降りて子供たちの間で演奏し、子供たちをノセてしまうつもりだった。
いざ、実行してみると子供たちは踊り出さない。彼らは踊りたそうにするのだけれど、どういうステップを踏めばいいのか、どういう風に体を動かせばいいのかわからない。手本にするべき固有の踊りが小さい頃から周りになかったということだ。僕のステレオタイプかもしれないけれど、これがアフリカの何処かの部族の子供だったら、自然に自分達の踊りを始めるんじゃないだろうか。小さい頃から、大人達が楽しそうに踊るのを見て育つ環境にいるのだから。
僕はそういう時代に生きてるみたいだ。
(こさかよしのり/在伊賀上野/投稿)
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