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H.V.S通信 vol.29 1999年(平成11年)8月



発見した水口の映画試写会を終えて


映画の場面が変わるたびに、ささやきが場内を満たし...
『伸びゆく水口』『弥次喜多水口珍道中』

 
試写会日程=1999(平成11)年7月25日(日)10:30〜12:00
試写内容=『伸びゆく水口』(製作年は調査中/モノクロ・シネマスコープ)『弥次喜多水口珍道中』(製作年は調査中/モノクロ・スタンダード/サイレント)いずれも35ミリ・フィルムで発見したが、今回はビデオテープに収録した版で試写
ゲスト=津田春吉(映画を持っていた人、大正13年生まれ)、米田実(水口歴史民俗資料館学芸員)

 試写会を行った目的のひとつは、発見した水口の映画が、いったい何年に誰が製作したものなのかを確かめることだった。調査は今年になってから始めていたが、データを特定する根拠や物件とは、未だ出会えずのまま。10月に開催する碧水ホール企画上映「映画−20世紀の証言力」の一プログラムとして、現存していた35ミリ・フィルムにて復活上映することが決定しているが、それまでに、少なくとも発見した映画の年齢と産みの親ぐらいは記して、映画にかかわった人々に敬意をあらわしておこうと考えての、急遽の試写会であった。たのみの綱は、いま生きている人と、その人の記憶なのである。
 試写は、『伸びゆく水口』を先に、その次に『弥次喜多水口珍道中』と、時代を遡る形で行った。試写の最中、映画の場面が変わるたびに、ささやきが場内を満たし、その声が、ときおりフンワリと響きわたった。派手なSFXや、刺激的な暴力シーン、甘美なラブ・シーンなどない記録映画。当時かけらもなかったわたしにとって、まるで撮影所のセットのように思えるぐらいの、もう今は見当たらない風景、そして今はなき商店や人々が、スクリーンの中で動いていた。現実にはなくなっているはずのものが生き返る瞬間を、映画では複数で同時に共有できる。
 肝心の発見した映画の年齢と産みの親の特定は、またしても今後にゆずることになったが、試写会にお集りいただいた方々が生き生きと語る証言で一歩前進した。ほかにもうれしいことがいくつかあった。そのひとつは、『弥次喜多水口珍道中』に写っている水口映画劇場(通称として水映<すいえい>と呼ばれていた)で映写技師だった5人のうち、4人の方が今もお元気で、みなさんが試写会に駆けつけてくださったことである。当時の水口のことをまったく知らない方には信じられないことだろうが、戦後水口には、昭和40年代後半まで映画館が2軒あったのである。しかし、かつて映画館を裏方から支えてきた仲間が一堂に出会われるのは、ほんと久しぶりのことだろう。
 さらに、試写会の前日、コーディネーターの米田実学芸員が、水口で最初の映画館的役割(当時は、芝居小屋としての機能が中心だったと思われる。)も果たしていたと言えるだろう衆樂舘(しゅうらくかん)が1890(明治23)年に立ち上がったことが記されている文献を見つけたと、その資料を持ってきてくださったのである。これまで本格的に調査研究される機会が少なかった芸能小屋の歴史を記述する貴重な資料である。

 映画の起源は諸説あるが、こんにち一般的な1895年12月28日というリュミエール暦にしたがえば、世界史は、まだ映画史を100年と少しを記録したばかり。今後は、おそらく今以上に、映画は貴重な文化的財産としてとらえられることになるだろう。動く証言は、映画をおいてほかになく、動いて歴史を語れるものは、19世紀末以前の世界史には存在しないからである。そして、その歴史の証人となるのは、映画という物体と、それを見続けることができた、わたしたちを含めた20世紀以降の人々だけなのである。
1999(平成11)年7月26日
(文/上村秀裕/碧水ホール学芸員)

■碧水ホール企画上映「映画−20世紀の証言力」は、今秋10月1日〜3日、10月9日〜10日の5日間にわたって開催し、映画の起源といわれるリュミエール兄弟の作品から、1900年代最後を飾るにふさわしい原將人監督最新作まで、全14プログラム42作品を上映します。発見した水口の映画『伸びゆく水口』『弥次喜多水口珍道中』の35ミリ・フィルム版は10月9日に上映。この日は、さらに発見した水口の映画『戦前の水口小学校』※推定1936(昭和11)年の併映を予定しています。

 

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