このページは碧水ホールが1995年6月に主催した「バスター・キートン映画祭」に配布されたテキストを再録したものの他、(バスター・キートンの全作品リスト)が掲載されています。


 本企画開催にあたり、喜劇映画研究会およびアテネ・フランセ文化センターの皆様には格別のご協力をいただきました。ありがとうございました。
 また、本テキスト作成につきましては、喜劇映画研究会の皆様から、膨大な資料と適切な助言をいただきました。重ねてお礼もうしあげます。

バスター・キートン
Buster Keaton (1895.10.4~1966.2.1)


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 旅芸人の家庭に生まれたキートン。ハイハイで偶然舞台にあがった彼は、生後9ヵ月にして舞台デビュー。5歳の時には一座の看板スターとなる。旅芸人であったこの頃からすでに、笑わぬ喜劇王キートンのトレードマーク“ストーン・フェイス”は生まれている。
 21歳の時、当時チャップリンと人気を二分していた喜劇の大スター<ロスコー・アーバックル>と出会い、映画界入り。アーバックル作品の『ロスコー・アーバックルの女装』(1917)で助演による映画デビュー。しばらくアーバックル作品に助演で映画出演するが、当初、主演に予定されていたダグラス・フェアバンクスから指名をうけた『馬鹿息子』(1920)で長編初主演。また『ハイ・サイン』で初の監督・主演。同年、バスター・キートン・プロダクションズを設立し、2巻物の傑作短編を連発。『キートンの恋愛三代記』(1923)で監督・主演による初の長編を製作。以後、今日代表作とされる長編を発表。『キートンの蒸気船』(1928)を最後に、人生最大のミステイクと本人が語るMGMへ移籍。興行的には成功するが、思いどおりの映画が撮れなくなったキートンは、トーキー映画の時代に突入する中で、急速に勢いを失う。しかしながら、ヨーロッパでの彼の人気は衰えなかった。依頼された仕事は、ギャグの考案(マルクス・ブラザース作品等)から端役にいたるまでこなした。
 第二次大戦後、世界的なキートン再評価がはじまる。50年代には、晩年のビジネス・パートナーとなるレイモンド・ローハワーによる、失われたフィルム発掘作業も行われはじめる。
 今年(1995年)はキートン生誕100年目にあたる。


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