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H.V.S通信 vol.50 2001年(平成14年)1月



vol.50-21
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いよいよHVS通信も50号!!
 
 
 第1号で初めて原稿を書いた時・・自分の書いた文章が誰かの目に触れる事がとても恥ずかしかった。思わぬ人からいつも読んでますと言われたりしたこともありました。月日は流れ、私も随分大人になりました。それでは勝手にワタクシテキに印象に残った出来事は・・。

・マルセ太郎さんの立体講談泣けた!!
 今は亡きマルセ太郎さんのスクリーンの無い映画『泥の河』は、ドアの近くで人の誘導しながらボーと観ていました。ところがどっこいすっかりマルセワールドにはまって、終わる頃には涙がポロリ。最後の友達との別れのシーンで「いっちゃ〜ん!!」っていう声まだ覚えてる。もう7年前なのに。とても切なかったな。
 あと色紙いただいたのですが私宛のには「記憶は弱者にあり」と書いてあって。当時はどう解釈すればいいのかわからなかったのに最近この言葉の意味がわかってきたような気がする。

・出演者の皆さん意外に気さく。
 高田みどりさんのパーカッションの世界でゲスト出演の梅津さん。空いてる時間とか気さくに話し掛けてくださるのでこちらがビビッてしまいました。気さくといえば・・・ネーネーズの皆さんは打ち上げのとき沖縄特有の髪型について質問したら髪の毛触らせて頂きました。橋幸夫さんは熱狂的なファンに囲まれても愛想良く、講演中に舞台袖で待機する私にもニコって笑顔。あの笑顔は私だけのものよ!!って思うとクラクラしました。橋幸夫さんから頂いた色紙には「夢」と一言。夢のようなひと時でした。

・鷲山かおりさん、福原佐和子さん美人過ぎてびっくり。
 この二人でDUO京都。ロビーライブでした。二人とも美しくってびっくり。素敵。キラキラして見えました。鷲山さんのソロのバッハの無伴奏の曲。どんどん迫るものがあるような感じでドキドキ。福原さんの箏は、今までの箏の私のイメージをぶち破るもので馴染みやすかったです。シースルーのお箏台が新鮮でした。

碧水ホールで観た好きな映画
・鴛鴦歌合戦・・・時代劇なのにミュージカル!!それだけで楽しかったです。
・或る夜の出来事・・・これはまだHVSになる前にお客として観た。大好きな映画です。
・スミス都へ行く・・・これも「或る夜の出来事」と一緒に観た。当時はとても感動しました。今観ても同じような感動はないと思う。映画と出会うタイミングも大事なんだなぁ、って思う。
・周遊する蒸気船・・・びっくりするような話なんだけどとてもパワフル!!
 ここには書ききれませんでしたが、まだまだ印象に残った出来事はたくさんありました。 河瀬直美さんと話した、矢野顕子さんと写真とった、谷川俊太郎さんが目の前にいた、和太鼓一路のメンバーのおにいさんが、めちゃくちゃかっこよかったなど。 あらためてふり返るとHVSは、私の趣味のひとつになってるなぁ。
(Satsuki ・HVS)
いよいよ
HVS通信も50号!!





vol.50-22
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「HVSになってメモリアルな出来事」
「HVSになって
 メモリアルな出来事」


 あけましておめでとうございます。HVSになって一番メモリアルな出来事は、なんといっても矢野顕子さんの出前コンサートです。HVSに入るきっかけでしたし。
 ステージを下りた矢野さんはちっちゃくてかわいい人でした。当日はすっかりミーハーモードで舞い上がっていたのでちゃんと聴くことができなかったのがすごく残念で、聴く側のコンディションってのもあるのだな、と初めて思ったり。
 その他、印象深かったのは浄土声明、薪能、フレデリック・ワイズマンの映画でしょうか。全部おととしのイベントなのが恥ずかしいです。去年は仕事にかまけてHVSとしての活動はほとんどできんかったので今年こそは...と思っております。
(中谷賢一郎・HVS)


vol.50-23
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おめでとう
おめでとう


 2002年明けました!おめでとう。2年前からミレニアムや新世紀でなんか肩に力が入ってたみたいで、今年はなんもないすごくスムースな年越しができました。の〜んびり楽しく正月を過ごし、自然に体重もふえました。
 それから、HVS通信50号おめでとう。もう50号。創刊する前や1号の原稿を書く時のことがよみがえってくるようです。最近はめっきり原稿を書くことから遠ざかっていて、書かないから物事も深く考えなくなってきた・・・ような。とにかく、また書き出すいい機会となりました。  さて、お題をいただきました。「HVSになって一番メモリアルなこと。」一番ってゆうのがむつかしいね。でもやっぱりこれまでに同じようなことを聞かれて答えてきたやつかなあ。
 それは、フランス映画「最後の人」で最後のたった一言のセリフの字幕をスライドで映すのにドキドキしながら待っていて無事(?)映せたこと。映画がすごい好きでヘキスイのV.スタッフになった私にとってそれは一瞬でも映画の中に入り込めたように思えた瞬間でした。忘れることはできません。
 それと様々なものとの出会い。特にいろんな人との出会いですね。パーカッシヨン奏者の高田みどりさん、矢野顕子さんの名スタッフ新居さん、橋幸夫さん、それからこんな私の原稿を読んでくれて覚えていてくれて「楽しみにしています。」と言ってくれた人。そんな人もいるんだぁと心が励まされました。
 と、なんだかアカデミー賞を獲得した人が言うスピーチみたいになってきました。それからヘキスイホールでみつけた一枚のビラから思い立ち、たちまち富山へ一人旅をしたこともメモリアル。HVSにならなかったら、これも体験できなかったんやなあ。あと番外編ではルイス・ブニュエルの「黄金時代」!あんなシュールな映画を一番前の席でたっぷり見ていた時間!それはたまらなく忘れられないぐらい苦痛な時間でした。失礼!でもとんでもない映画やったのにすごい思い出の一本になりました。最近思うんですけど、映画は好き嫌いでなく、忘れられないものがその人にとっていい映画なのかも。少々毒があっても忘れられない人になりたい2002年の南です。
hvs/minami.

vol.50-31
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宿題出来た
宿題出来た

「碧水ホール・メモリアル・ベスト」














HVS通信・投稿のご案内とお願い
 原稿をお寄せ下さい。締め切りはおおむね毎月の最終火曜日、発行は月初めの予定ですが、不定期です。HVS通信は若干の編集を加えてインターネットホームページに掲出されます。
 HVS通信はためぐち感覚、投稿はファックス、e-メール、手書きやフロッピーを郵送、なんでも結構です。碧水ホールへ来て、その場で書くという達人も何人かいます。


「碧水ホール・メモリアル・ベスト」
 一番の思い出といえばネーネーズのコンサート(1997年9月14日開催)で す。満員の客と面倒な下準備で「もうこんなコンサートはかんべんして〜」と 上村氏に言わせた一大コンサート。あれと橋幸夫講演会(1996年7月13日) と矢野顕子出前コンサート(2000年6月17日)が「碧水熱狂イベント」の3 強ではないかと思っています(ま、橋幸夫の熱狂は「恐怖」に近いものでした が)。
 まぁはじめてインタビューをした、ということも理由ですが、あれは完全に 失敗したなぁという思い出しかない。「脱力するような歌を歌うからステージ でも脱力してるんですか?」と聞いて「そんなことないよぉ。私らはすっごい 緊張してるんだよ」と半分怒られたり、「沖縄ってみなさんにとってどんなと ころですか」というあまりにありきたりな質問をして「住んでいるところ」っ てあっさり返されたり・・。  でもそれ以外の理由の方が私には大きい。あのコンサートを前館長に提案し た頃、私は「沖縄病」の真っ最中でした。基地問題から入った沖縄への興味 は、琉球国史、沖縄戦、伝統文化、そして音楽へと拡がっていきました。県人 会入り浸り〜琉球フェスティバル鑑賞〜沖縄音楽のCD連続購入〜大阪・大正 の沖縄文化会館訪問〜沖縄での照屋林助のお店訪問と熱病が続いていた中、豊 かで深い沖縄の文化にはまりまくった私は、次第に本気で自分の「ウチナン チュー化(沖縄人になる)」を考え始めていました。ビールはオリオン、つま みはミミガー(豚の耳)、ごはんはチャンプルー(八宝菜みたいなもの)、お やつはポーポー(ホットケーキを丸めたようなお菓子)、三線弾いて歌を歌 い、エイサー隊に入って夜を過ごす日々。まさに理想郷!その気分をみんなに も味わってほしくて、あのコンサートを開くよう提案しました。かなり熱、 入ってたと思いますよ。
 でも、当たり前ですがウチナンチューにはなれなかった。カチャーシー(コ ンサートの最後などで演奏する早い曲)では手ぇ舞(手をゆらゆらさせて踊 る)できなかった。エイサーの踊りに心揺さぶられなかった。『パイナップル ツアーズ』『GAMA』などの映画も楽しめなかった。もちろん一応のってい るふりをしていたけれど、本当はちがうなぁと思ってました。 そうなると急に 「沖縄」が恐くなって、その後一時期「沖縄」をかなりさけて通るようにな り、何人もの人に大変失礼な態度をとってしまいました。本当に申し訳ないこ とをしました。すみません。
 団体旅行で訪れた2度目の沖縄で、レコード店の店員から聞いた「沖縄で熱 い音楽はパンクです。民謡じゃありません」の言葉と、沖縄の空にやたらと染 みたSMAPの『夜空のムコウ』のメロディー。「ウチナー」じゃない沖縄もあ る。「ウチナンチュ」になるより、「ウチナンチュ」でも「ヤマトンチュ」で もない「なんでもありのなんにもなし」の方が自分じゃないのか?その上で沖 縄と適度の距離と違いを確認しながらつきあえばいいんじゃないか?そう思え たらずいぶんと楽になりました。だから『ちゅらさん』もOK。三線もたまにひ くために買い直しました。今、もう一度沖縄に行きたいなぁと思っています。 今度は「観光客」という意識をはっきりと持っていきたい。
 沖縄は今もあこがれであり、ちょっとした傷であり、という場所です。ネー ネーズのコンサートを思い出すと、少し胸が痛みつつも、なんだかあの「沖縄 病」の自分が懐かしくもなります。まぁ散々人を巻き込んでおきながら、こん な自分勝手な理由で一番の思い出にしてしまい、すみません。
( 陽平・HVS)


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