第1回碧水ホール・フォーラム報告集

水口町教育委員会/水口町立碧水ホール
開催日 1996年9月21日(土)
会 場 碧水ホール   
録音 津田春吉(音響技師)/編集・載録 竹山靖玄(碧水ホール館長)
発行 水口町立碧水ホール/発行日 平成8年12月20日
ホームページ掲出 碧水ホールボランティアスタッフ 1996.12.27


はじめに                         ●表紙へもどる
日程/参加者/講師プロフィール
問題提起 中川博志 「いま、なぜアジア音楽なのか?」
問題提起 小暮宣雄 どうしてわざわざアーツ体験を探すの?
講師&参加者セッション

講師&参加者セッション

   事前にリクエスト用紙を配布して、講師の話を聞きながら疑問点やさらに聞きた
  い事をメモして休憩時間に提出していただいた。それをもとにしてディスカッション
  を進めた。ここでは、その中から一部を抜粋して掲載している。


司会(竹山)

 本日のフォーラムのメインとなっているのが、地域の文化ということになっているのですが、とくにホールの関わり合いとか、いう事があると思います。それでこういう事が聞きたい、というので書いておられるのがいくつかあります。それらの中で何点か取り上げて、話を進めて行きたいと思います。まぁ、これは直接当ホールの事になるのかと思いますが、
1、生涯学習社会に対応できる条件の整備(急ぐべき事として)を、当ホールの役割を中心にお教え頂きたい。
2、行政とくに教育行政との関わりにおいて、行政の力を借りなくてもできるかどうか。
この2点からとりあえず進めて行きたいと思いますが、それでは小暮先生の方からよろしくお願い致します。

小暮

 生涯学習社会というのは、かなり広い考え方だと思います。すごく揚げ足をとるような言い方をすると、ずっ〜と学習ばかりして死んでしまってもいいのだろうか。という気もしますが、学習してたぶんそれを発揮し、またけつまずいて学習するという、トライアルしてまたやるという意味だとそういう風に考えるというような気がします。
 それでやっぱり生涯学習の中にホールというのが、どれだけ意味があるのかということです。たぶん僕は生涯学習という機能とか価値だけで、このホールをとらえられないと思います。だけども、このホールが担える生涯学習の大きな力というのは、かなりあるんではないかと思います。

 それはまずは、やっぱり教育現場とくに学校教育現場とは違う自由な、音楽とか、映画とか、そういうものを学べる場にここはなっている訳です。もっとなります。で、そのときに今はふさがっていると思いますが、そういうみるだけ、聴くだけではなくて、直接アーティストと一緒に何かを作っていこうとかいうようなワークショップとか、そういうプログラムがどんどん出来てくれば、おもしろいのではないかなぁと思います。

 ここがこれからそういう風になるかどうかわかりませんが、映画の、日本人のいろんな新しい、若い作家たちが東京だとか、海外ばかりでなく、いろいろな地域で活躍することが多くなってきました。映像について、みんながかなり批評能力がでてきました。はじめはマスコミで、テレビで、みんな汚染されていると言っていますが、若い人は、そういう事に対して、すごく批評ができる、批判的なさめた人が多くなりました。つまり、自分達でデジタルに、それを変えていく事も可能なんだと。それをあたかもすべての世界の真実だとテレビの中で思うということは、もうなくなっています。そういう人たちと一緒に、本当の町の真実をみようという事で映像を一緒につくる作業をやるというのを、僕はここのホールができる映画ということに対して、こだわったホールの大きな生涯学習のワークショップじゃないかと。例えばということで、これをやれという訳ではないんですけど、思いついた事を考えています。

 「急ぐべきこと」ということなんですけど、ワークショップというのは、「急がない」ことなんですね。「急がない」ということを「急いで」いってもいいのかなぁ。つまり、「急がない」と言うこと、「急ぐ」ことと言うか、「急いで」しまって、知識を得るということでなくて、知識を得るまでを大事にするということが、今はどうしてもなくなっています。あることを得るための、何か過程をもっと大事にするというような、生涯学習のことを「急がない」を「急いで」頂きたい。

 それから町行政については、行政の力ということは、やはり、ある面で行政は個人の人の表現とか、自分で自分の感じを守るということもあるし、守らないで一定の方向にもっていくという両方のことをやることが多いと思います。とくに、表現の分野については、環境をととのえていくということで、その中味に対しては、できる限り自由な討論ということで、おいていくというかそういうようなですね、それも行政のある力だと思うんです。
 どうしても「急いで」しまうことでも、結果をだしたり、どんどん子どもも成長しなければいけないとか、なってしまいますので、もっとじっくりとするというために、この場所がある面でモラトリアムっていいますか、フリーなスペースとして保存する。そのために経費とか、働く人を確保するということ。つまり、何か「急がない」ための空間を行政の方の予算とか、システムとしておかれることが、すごく大事じゃないかと、ちょっと思いました。

司会

 今のご説明に対しまして、ご質問された方、ほかにご意見がございましたら、どうぞ、

質問者

 私、このホールの運営審議委員の一人として、さきほど質問させていただいた内容は、そうなんですけど。いわゆる、こう人間が生まれおちたときから、表現力をそれなりにもっていると、そうしたものを引き出していく、そのものが、いわゆる芸術や文化、広く言えば、それは生活も含めて、そういうものではないかなという風に、私はいつも思っているんです。そうしますと、住民のひとり一人は、結局表現者の一人であると、個々の表現者であると、そうなれば、個々の表現者のですね、表現力をどこかで発表したいと願うのは誰しもそうだと思うんですね。共通した根っこだと思うんです。そういう意味からいって、その住民参加というよりも住民の手作りの音楽なり、美術なり、そういったものが育っていく環境を作っていくことが、当ホールの大きなひとつの使命ではないだろうかと、普段からもそんなこと思っているんです。
 先ほどのお話をうかがった中ですね、大変啓発を受けたことが、非常に多いですが、とくにリアリティに関連しましてね、この人間受け身にね、良質な音楽なり、美術なり、演劇なり、良質なものを受け入れるというか、受け身的に受け取るというか。与える方からすると提供するというか、そういうことと関わって、受ける身の方がどういう気持、あるいは態度・信条というものがあってよいのかどうか。その辺が私もよくわからないので、良質なものを提供していただくことは、たいへん大事なことで、なかなかむつかしいことでもあることですけれども、当然当ホールでやっていただくこと、例えばインドの音楽にしましても、早くから当ホールは取り組んでいただいていたというお褒めの言葉までいただいた訳ですから、たいへんうれしく思っているんですが、そういう立場から考えても、今度は手作りの方向にですね、もう一方、先ほどワークショップの問題もでましたが、そのことをおしゃっていただいていたんだと思います。
 そういう点で、たいへんこうありがたいご意見をいただいたなぁと思うんですけどね。当然な発言としての、表現者としての発言の場としてのね、公共性というか、公立ホールの場合は、そういう使命を帯びているというところから考えてみて、なんとかそういうものが育つような環境、しかもそれが若い人が、そのできるだけ早くから親しみ、拡散していく力を持ったバイタリティーを持った若い人達が育って下さる、そういう土壌づくりといったものが、必要じゃないだろうか、という風に思っているのですが。

小暮

 おっしゃる通りだと思いますので、とくにあれなんですけれども。
 受け身でといったことなんですが。本当に良質なものというのは、自分たちでそこにいろんな解釈ができる多様性をもっているものが良質なものかもしれないんです。ですから、こうやって自分の言葉でホールが提供したものを自分の言葉で投げかえすような感想を言い合うとか、批評し合うとか、今度は自分達とこのアーティストとやってもらうことも、これは受け身ではなくて、提供する一方的なホールではなくて、そのアンケートを書く自身も、まず自分達の選び方としての能動性があると僕は思うんです。それも表現です。
 音楽を音楽で表現する、中川さんの音楽を聴いて触発される。あるいは、もっとちがう形でやりたいというひとつの表現もあるし、なにか言葉としてなにかあてる表現もあるし、絵として描こうとする表現もある。そういう場をここが与えていくということと、もうひとつはもう少しながいレンジをもって一緒に表現していくという、友として、アーティストを巻き込んでいく、それがおっしゃった意味のとくにそうだと思うんです。僕もそういうやり方をされたらいいと思いますが、これについては、あまり、先ほど言いましたように、急がないでやらないと、ここのキャパの問題、僕は過稼働するより、少し少ない目の稼働の方が良いと思っているんです。
 で、休んでいるときに、考えることもいっぱいありますので、ワークショップで使っていたりとか、そういう形で稼働、それも半稼働かもしれないんですけれども、そういう稼働の仕方もないと、いつもいつも開けっぱなし、全部お客を入れることばかりやっていると、消耗するんで、ここをお客でいっぱいにするために、お客を入れないことも、逆に運営審議委員さんとして見て貰って、それはながい過程の中で、はっきりいって人員の制約もあるでしょうし、予算の制約もありますから、最大の力をだすために、ここは閉じているようですけれども、中はうごめいているというときとかね、そういうのを含めて、見ていただくと。僕はちょっとですね、ここのスタッフはながい目でみればできると思うんです。

司会

 ながめというか、文化に緊急性はないということなんですけど。本日は公共のホールばかりでなくて、私立のホールの方もおみえです。地域文化という、あるいは地域文化の創造といえば、公共のホールだけが担っていると思ったら大きな間違いで、やっぱり同等あるいは、それ以上に大きな力を持っているところが、全国にはいっぱいありますので。
 質問はなぜ公共ホールを民間に開放しないのか。民間の催し物のチラシすら置かせてくれないところも多いということなんですけど。これは質問なんですけども。それの答えというのは、すぐには見つからないかもしれませんけども、例えば公共ホールと民間ホールとが、手をつなぎあって地域の文化を創造していく、そういう何かご意見はございませんか。

小暮

 高知県でちょっとまえに講座をやったんですけれど、そのときは民間のホールの方と、それから営業じゃなくて、民間で子どもたちのミュージカルを作っている制作の方とホールの担当者の方と、みんな一緒になって集まって研修しました。で、公文協(公立文化施設協議会)という名前の公を取りました文化施設協議会という公立を取られて高知県ではされています。そういう面で、やっぱり民間で、民間でといっても、たぶん営業でということでないところが多いと思うんですけれども、やっておられるところの力を(行政は)実績をどうしても信じますので、はじめ0の時に一緒にというのではなくて、公立の人もそこに行ってみて、「わぁ!すごい、本物の意思をもって、いろいろなプロデュースをされているな」とわかった時に、逆に教えて貰うという部分がすごく多くて、一緒にされたのが高知県の例だと思うんです。そういう形でたぶん本当にやる人のネットワークというのは、民間の人たちとか、公立とかはあまり関係なくてできるのではないかと僕は思います。

司会

 僕もそうやと思うんですね。垣根つくったらあかんし、お互いが。で、チラシを置してくれないところが多いていうこと。僕はこの辺はよくわからない。うちはジーベックも置いているし、ブラームスも、酒遊舘さんもおいてます。そういう風に滋賀銀の経文さんも置いてもらっていますから、別に公だからどう、ただ場が無いので、必ずいっぺんに同時進行は無理だということでやっていますけど、ちょっとこの意味は僕が民間じゃないからよくわからないのですけども。

小暮

 いや結構あるんですよ。滋賀県の中は知らないですけど、四国の何とか県とかね、あると思うんです。

司会

 わかりました。これからも手を携えて、というか碧水ホールの方が教えて貰わなければならないことがいっぱいあると思うんで、今後ともおつきあいのほどよろしくお願いするということで、ここは終らせて頂きます。

 それから、これだけは守らなければならないホールとボランティアの関係ということで質問がきています。
   1、ホールとボランティア・スタッフのタブーな事項
   2、アーティストとボランティアのタブーな事項
 ということで、両方ともタブー。これはという、別にそれにこだわらなくても良いですが、現在ホールでボランティア・スタッフを置いておられるところというのは、最近でてきていますので、そういう意味からお答えいただいたら。

中川

 はい。え〜タブーですか。

司会

 べつにタブーにこだわらなくても。

中川

 これは、例えばこのホールとの役割というのと関係してくると思います。ボランティア・スタッフというのは、要するに一般には、無給で働く、自発的に無給で協力をするスタッフというように、解釈するとすれば、全然タブーとかいうのは無いんじゃないかと思います。
 で、例えば、ここのホールみたいに学芸員、上村さん学芸員ということで、いろんな外から来た企画を考えながらですね、今度はこれをやって行きましょうと、ホール全体として、ある程度指針をたてたとしたら、それにボランティアがモギリは私やりましょうとか、前説は私しますとか、そういう風な役割分担になっていると思いますが、タブーとか言ったとき、ボランティアの人たちの動機、それぞれの何で自分がこういうことをやりたいのかということの動機を一緒にやって、アーティストたちとやっているうちに、自己確認をやっていただければ、何のタブーもないんじゃないかと思います。アーティストとボランティアは何か関係結んじゃいけないとかというタブーは全然なくて。
 これもほとんどタブーというようなことはないと思いますが、ボランティアというのはひとつは、これは仏教的な考え方なんですけど、喜捨という行為だと思うんですね。ようするに行為することが喜びなんだということですね。これというのは、アートと全く同じで、日常というのは義務感なんですけれども、それが非日常になると、例えば料理何かでも同じで、僕は料理するんですけど、料理というのは毎日これを作らなければならないと苦痛になるんですけど、いろいろイマジネーション働かせて作るというのは、喜びなんですよね。で、考え方の違いだけなんですよ。日常生活で、あれしなければ、これしなければいけないと考えるか、積極的に考えるかによって、何でも違ってくる。掃除でも何でもそうなんですけど。で、例えば我々も演奏家として例えばギャラの話がでますね。
 これは冗談言っているんですけど、あるパーティーのところでインド関係のパーティーだから、インド音楽をと言われて呼ばれる時もあるんですね。たいがいそう言う時にはいきたくないいんで断わるようにしているんです。が、あまりムゲに断わるのもちょっとあれなんで、お礼いくら払ったらいいでしょうかと聞かれるんですよ。そんな時は100万円とたいがい答えるんですよ。そうしたら断わってきますよ。まぁ〜、もし来たらありがたい訳ですね。とくにミュージシャンなんかだと、その場で演奏することが喜びであれば、お金とか関係なくなってしまう訳ですよ。別の面でいえば、わざわざ行って演奏しても、喜びが少なければお金貰って、頭で解決するよりしかなかって。
 だから、そういう関係と同じようにボランティアというのも、一定うれしいからやっている訳でね。そこに私に対する待遇が良くないわとかね、そういう不満が仮にでてくるとしますと、やっていること自体が喜びじゃなくなっている訳ですよね。その辺を毎回確認するというか、本人自身が。だから、タブーという風に、何か質問の内容をよく把握できていないからかもしれないけど、そのように思います。

小暮

ちょっとタブーというかどうかわからないですけど、ホールのスタッフの方というのは自分で自主企画した場合に、自分として思ったより少しうまく行かなかったと思っても、批評は絶対してはいけない。というのはたぶんタブーとしてあると思うんです。
 それは民間でも公共でもそうですが、とくに公共の場合は自分たちがやって、「こういう風にやったら次は・・・」とは思いますけれど、公にそれを言ってしまうとおしまいなことがいっぱいあると思うんです。一方ボランティア・スタッフの場合は、そこの辺は自由に発言できる身分ではあると思います。その辺のことは、僕はあまりつきつめて「あなたも本当のことを言いなさいよ」みたいなことをホールスタッフとの関係性というのはね、うまくしておかないとアートのことになれば、結局妥協とかなかなかない世界になってくるので。ボランティアの方々というのは、妥協する人は全然ないんですけど、ホールのスタッフの場合のある職業性みたいなことがありますので、そのあたりをホールのスタッフは何でちゃんと表現しないんだろうかと思われることもある場面もあると思います。少なくともフランクに個人的に話しているときは、もし言っているとしても、一般のところでは絶対言えない立場というのがあるので、ホールスタッフの立場みたいなものは、ボランティアの方はちょっと知ってもらうという必要な部分というのはあると思います。
 それとアーティストとボランティアとも、ボランティアはアーティストに喜捨をして、アーティストが気持よくなっていい表現をしてもらいたいとおもうことで、いろいろ活動される訳ですから、当然そこにタブーというものはないと思うんです。ただボランティアがどこか追っかけみたいになってしまうと、どこか甘えというのがあります。ボランティアである限りはタブーはないと思うんですけど。公演する時には当然アーティストがうまくするためのホールのお手伝いをするというのが、一方にある訳ですけど、アーティストの望みを叶えるためにホールに対して、いろんなことを持ち出していくことをやってしまった場合に、ある公演というものを現実的な営みというか、それにちょっと、あまりにも要求が過剰となる場合があるんです。その辺は僕はどうもホールスタッフの方の思いで、ボランティアの方には、たぶん反論があると思うんです。そういうことも全く無いこともないかなという時もたぶんあるんかなと。
 やっぱり、ボランティア精神とホールに対してもボランティア、とくにアートのボランティアは、そのホールがたぶん機関として、手段としてあるんで、その手段としてのホールもボランタリーな気分で愛しているというのがある限り、タブーというのは無いと、そういうことだと思います。

司会

 ありがとうございます。今のボランティアの関係でなにか質問された方、補足みたいのがあれば。

中川

 もうひとついいですか。ホールと関係ないんですが、勿論ニュースなんかでご存じなことですが、例えば、アフリカなんかに行くボランティアの人たちは皆な有給で、お金貰っている訳ですよ。ですから、日本というのは、何か無給でやるということが美徳みたいとか、喜捨という考え方があって、そういうようになっていると思うんですけれども。絶対に長続きしないというか、余裕のある人ならいいんですけど、お金に困っている人がボランティアできないですよね。そこら辺、ちょっとホールのボランティアというのは違うかもしれませんが、いずれは何かそういうスタッフって必ず必要な訳ですから、ホールにとって無給の人たちに依存状態というのは、ずっ〜と長続きさせていくというのはいいことなのか、どうかよくわかりませんね。
 例えば、ドイツの8万人くらいの小さな町でオペラハウスを持っているんですけれども、そこは800人ほどスタッフがいるんですよ。キャパは800か1、000くらいのホールなんですけども、すごく古いホールなんですね。そこはスタッフが、勿論モギリの人からチラシのデザインの人から、オペラですから、あらゆる作業分担されます。そういうところは全部市から給料貰っているんです。そういう人たちはね、それで維持できる訳で、日本のボランティア制度の場合は、本来はホールがやるべきことを、有志を募って無給でやる人に依存していくという関係、これは全体の環境の問題なんですけれど、本当にいい状態、ヨーロッパがいいとはわかりませんが、そういうこともあるなぁと、ボランティアに関しては思います。長続きするかどうかは、アフリカなどでもよく取り上げられますよね。例えば欧米のボランティア団体から来ている人はちゃんと給料貰って、日本からの人は本当にお金なくてね、自分でポケットからお金を出してやってるみたいな。阪神大震災の時も大きく問題になったんですけどね、私も被災者なんですが、結局有給か無給かということが議論されていましたし、で、長続きしない訳ですよね。身分も不安定ですから。
 それが一定のお金で、そんなに高くのお金でなくて、さっき小暮さんがおっしゃったみたいに、「生かさず殺さず」ぐらいのお金を、そして長く続くということの方がいいと思うんですね。

司会

 ボランティアが有給か無給かで、日本人というのは、だいたい先ほど話しがでていますように、古くより仏教の喜捨という精神が多分にありまして、しかし、現代日本仏教の中には、喜捨というのは少なくなって、どちらかというと即物的な寺院や僧侶、集団や教団が多いですけど。基本的に日本人というのは昔からそういう人を助けるときには、自分に対価を求めないというのが、美徳みたいに思われていたから、ボランティアはどうしても無給になるのかとおもいます。
 けれどやっぱり、例えば事業するときに夜遅く帰ってもらわなければならない、あるいは遠いところから車で来てもらわなければならない。でも、それまでも無料でやっているのは、考え方によってはすごく美徳だけれども、いまの実際の経済からいったら、何でそんなことまでせんならんのかなという人の方が多いと思うんですね。それならせんとこかと。そやけど何かそういうものだけは出してあげると、補助したげると、そうすると私もしたいという人がいっぱいでてくるかもしれない。そういう面が僕もあるんじゃないかなと思います。

質問者

 教育委員会におります長と申します。いま有給のボランティアの話。たしかにボランティアに対する有給というものは、かなりふえてきているように聞いているんですけれど。いま館長さんのお話みたいに、せめて交通費とお昼弁当くらいという風な線。あるいは中川先生の話された「生かさず殺さず」ですか、どの程度の額なのか、ちょっと予想がつかないけど。ある程度、そしてまた最低賃金というのですか、その程度の額のところまで、まあそれ以上というのはむつかしいと思うんですけど、予算的な部分、またボランティアという部分、むつかしいと思うんですけど。たしかに私どもよくボランティアといって課題にしている訳ですけど、どこまで有給というか、お礼というか、というところがよくわからないのですけど、今の現状とそうしたことに対して将来的な部分をお教えいただけたらと思うんですけど。

中川

 私、お教えする立場じゃないんですが、例えばボランティアを募集するという人たちは、給料もらっている訳ですよね。役所から。応募してこようとする人たちは、無給に近い訳ですよね。フェアーじゃないですよね。そういうのをいつも感じちゃうんですよ。
 要するに絶対必要なスタッフというのは必要なんですよね。それを一つの事業としてやるには予算がないと。じゃ、何かやりたいという人を集めてくればいいというのは、何か依存というか、勿論そこにそれだけじゃないんですけれどね。それに参加してくるということ、参加を促してくるという意味も当然片方ではあると思うますけども。一方では、そういうフェアーでないところが、すごくあるような気がします。いずれは何か余力が出てきたら、恒常的にテンポラリーに、突然に町のスタッフになるとか、そんな風になっていった方が、何かやっている人たちもプライド持てると思いますよね。何となく附属物みたいな、そうでなければ、イメージになる可能性もありますよね。どうでしょうか。ちょっとその辺わかりませんが。

中村(道)

 今のボランティアという考え方の他に、アルバイトという考え方をもうひとつつけ加えたら、話がわかりやすくなるんじゃないですか。ホールで必要なものはアルバイトで雇って。ボランティアが担っているところはそういうことではないというように思います。

中川

 僕はアルバイトがボランティアに近いと思うんですよ。

中村(道)

 じつはイギリスの方の劇場のことを聞いたことがあるんですが、学生をアルバイトに雇うんですね。で、安くしてやらせるんですが、それはつまりホールへタダでいれてあげる。たくさんのものを学生たちに見せるひとつの方法で、アルバイトとして雇いながら、学生を育てているというような感じがありました。それはすごくおもしろいやり方だなぁと思いました。アルバイトといいながら、ホール側の投資だと思います。将来に対する。で、逆にボランティアということで集まってきてくれる人たちにまで、そうする必要はないだろうというのが、私ボランティア・スタッフですけれど、そういう風に感じます。

中川

 そうだと思います。ただね、ホールの業務というものと、参加型というのが、いっしょくたになってきてしまうとね。実際は本当のスタッフというのは、まともに見れないですよ。ここでやられていること、例えば外の担当だったら、見たいものがあっても見れないですよね。モギリの人が、いつまでも延々と客があったら、こちらではもう演奏が進行しているのに、これ見たいと思ってボランティアで来ているのにね。タダでいいものが見たいと来てるのに、向こうでモギリやってるから見れないとか。実際制作サイドというのは、そういうところは、ある程度犠牲になってしまうと思うんですよ。
 当然いま中村さんがおしゃったように、何か参加したいという人たちをムゲにという訳じゃないと思いますが、役割はそれぞれ違うと思うんですけど、私は少なくともジーベックなんかでやる時は、勿論すすんでやりたいという人もきますので、それで何とか経費節約しながら、制作するんですけれどね。でもできるだけ払うようにしているんですよ。やっぱり結局ね。何んかあったときにね。連絡係とか、いろんな人間が必要なんで、舞台で何か不測の事態が起きたときに伝えなければならないとか。その時に私はボランティアだからじっくり見てたいだとか言われたら、何も言えない訳ですよね。お金払っているから何が言えるという訳じゃないんですけど。でも、その辺はやっぱり分けて考えていますので、だから、どうなんですかね。ちょっとわからないですけどね。

小暮

 あの、もう全然結論でないんですけど、ボランティアとかの中、いくつかに分かれると思うんですけど、ひとつに旦那的ボランティアというんですか。喜捨とかに近いところがあると思うんですが。そういうのがあると思います。そんなお金なんかいらないよ、という形で地域のためにやっていくとか、もうひとつはアート・キャンプなんかに来ている学生的ボランティアといいますか、
 アートの場合音楽とか美術とか演劇という場合は、自分も学ぶというひとつの役割の中でボランティアに入っている。あるいはそういう仕組を作っているボランティアのありかたというのがあると思います。で、三つめにこれは自己表現とか生涯学習的なボランティアみたいなありかたというのが三つめにあって、この場合に少し表現しているけれども、表現の責任をとるためには少しお金がいるんじゃないかとか、でてくるんじゃないかなぁと、ここらあたりが、ここまでが全く無償なのかどうかよくわからないですけれども。少なくとも旦那的あるいは学生的ボランティアというのは無償じゃないかという気がしました。それがやっぱりボランティアとして、どうしても責任が伴って、かつそれが表現、自分のためというより、もっといろんな歯車的になる場合もあります。いろんな面でとくに舞台芸術の場合は、いろんな面でみんながみんな楽しく自己創造する訳ではないですから、その辺のところはケースバイケースがある。アートの中でも活動の違いというのがそこにあると思うんです。ただ言えることはやっぱり映画のクレジットじゃないんですけど、ボランティアの方の名前をきっちりと出してあげるとか、その辺のやり方というんですか、基本はアートというのは個人と個人の結びあいを、コミニュケーションを大事にすることですから、いろんな人の関わり合いを顔が見える形で出していくことが大事なことだと思います。

質問者

私、公民館の宇留野といいますが、先ほど小暮先生もおっしゃっておられたと思うんですけどね、公的なホールで企画した場合には、一般に通用しなあかんと、コンセンサスがないといけないというようなことをおっしゃったと思うんですが。だからここで企画したことは、町民は誰も来ないけど、全国の人たちはどんどんこれは貴重なあれだということで来る。それはねコンセンサスとしてはね。もう一つは地方文化のことですけれど、地方文化を育成するのが、公的な文化ホールの役割みたいな、例えば水口囃子の稽古とか教室とかを公民館でしないのかと聞かれたこともあるんですけれどね、公民館ではなじまないんです。あれは町の中でやっておられますので、ですから碧水ホールあたりで稽古場を提供して、発表させるとか、何か地方文化育成するようなのが、公的ホールの役割だと思うんですが。

小暮

 コンセンサスといったのは、ひとつはゼロということはないとしても、外から来るような催物をやるというのもあると思うんですよ。例えば産業的にいえば、商店街で町の人を相手に商売するというのもすごく大事な産業ですし、あるものを作って価値として出していくというのもあると思うんです。産業的な意味ですけれど。文化の生産という意味でいろんな方が、本当にこれはすごいと思うのを作っていくというのも町の戦略としてある仕事ですので。公民館の仕事というのは、やっぱりそういう地域内のいろんなニーズを全うしていくということですし、ホールの場合はそれの分プラスいろんなところに対しても価値のあるのもとして、認められているものを作っていくということも、すごく大きな力になってくると思います。で、おっしゃてることの半分はよくわかるんですけれども、そういう風なホールをコンセンサスとして認めていく。つまり自分は行かないんだけどあれはミュージックマガジンとかラテーナに載って皆が注目しているということでうれしく思うという、町の人たちのコンセンサスがでてくれば。私は聴かないけれど、子どもが音楽を好きになったときに、碧水ホールがあって良かったなと思えるということもすごく大事なことだと思います。いつもいつも何か日用品を売っていなければならないということでもないのかなと思います。水口の町の人でどうしても必要な音楽というのがいる場合があるんですけど、皆が必要でないですね。いろんな戦略をコンセンサスとしてとったほうがいいのかなと。例えばそのときに水口囃子をここでやるのかということでもべつにここでやるべきだということでもなくて、ある面でスタッフの問題とね、どこでやったほうがやりやすいかという問題だけのことですから、やること自身の、僕は地方文化をやって行くことは大事だと思います。ただここでやるべきかどうかというのもコンセンサスの問題で、皆で話し合って貰ったほうがいいのかなとちょっと思いました。

司会

 コンセンサスの問題で、おそらくもっと時間があればひろく、深くいろんなのがでてくると思うんですけど、僕自身が考えていることをちょっと言わせて貰いますと、やっぱりこれは公立のホールに限りますけれども、どこのホールもが東京の大きなホールだとか、大阪のホールだとか、そんなまねはする必要はないと思うんです。そして、自分というのは、このホールに関係しているものが、一生懸命自分の好きなことをやっていけば、ある程度、特色というのはでると思うんですね。そこに町民のためのホールだから、そこに自分の好きなことだけを押し付けたら良いのかという論がたぶんでてくると思うんです。

 けれども、もし特色あるホールをつくろうと思うならば、ためだけの企画をやったんでは決して特色あるホールにはならないと思うし、いわゆる単なる多目的ホールに過ぎないと思うんです。やっぱり特色だすためには、その自主事業というのは絶対的に必要だと思いますし、それが毎回必ず町民の方に、要求に、あるいはコンセンサスにあったものとは限らないと思うんですね。限らなくてもいいと思うんです。で、そういうことによって、例えば碧水ホールならば、こういう特色を持ったホールなんですよという。これひとつの町つくりに貢献していると思うんですね。
 で、この前日野町のわたむきホールの前館長と話していたんですが、ある時宮城県のバッハホールのある町の町会議員や町の関係者が視察に来られたんですね。あんな立派な全国区的なホールから来られたのかなと思っていたそうなんです。来られて話ししていたんですが、その町の姿勢は、別に町民のためにやってほしいとは思わない、と。ただここではバッハホールっていうのがあってすばらしい事をやっているんだとみんなに知って貰えたら、それは町おこしとして、非常に大きな事なんだと、町としても投資できる価値あるものだと言っておられたというんです。やっぱりそうだと思うんです。ある程度コンセンサスばかりをねらって、あるいは町民の意向ばかりを・・・・。全然しなければ、これはもう町立じゃなくなってしまうから。これはダメですけれども、ある部分では、一生懸命できる仕事場としてのホールが育っていったら、特色ある、或いは熱狂できるような企画というんですかね、そういうものもでてくるんじゃないかな。ちょっと意味不明で申し訳ないんですが、最近考えているのはそういう事なんです。
 例えば、下から盛り上がってくるホールの運営とか、いろいろ意見はあると思いますが、勿論それらも踏まえて考えていかなければならないんですが、できたらせっかくこれだけ上村君が何年間もかけて築いて来たことを、続けていくのなら音楽と映画とに、あるいはもう一つなにかをいれて特色のある水口のホールだというようになればいいなと、これは夢なんですけれど、また勝手な意見なんですけど思っています。

小暮

 こんな例はなんですけれど、例えばハードルがあるとするじゃないですか、ある面で企画が普通の下駄ばきでない企画があったとするときに、やるべきことはそれを低くするということでなく、助走距離を長くするほうがいいんじゃないだろうか。
 そのためにワークショップとか言ってみたんですけど、それを怖く思わない。たとえばメンタルなことで怖く思っているのに、飛んでみたら飛べるかもしれないと、思わせる勇気をつけることとか、そっちの方をやるべきだと思っているんです。企画自身は何かこう、それを専門的にやっていない人に多数決でもっていくというよりは、やる人を飛びやすくする、よっぽどひどいものであったらみんな骨折しますからあかんのですけど。飛べそうなんだけど、もう少し飛びたいというところをちょっとづつ上げていくとかね、急いで急がないということはそういうことだと思います。
 だから助走距離を増やしてみたり、飛んだあとの身体を慣らしていくとかね、そういう作業のところに目線をもっていくというところに、僕はまだ希望を感じているんですけど。

中川

 生涯学習という話しも出ましたけれども、こういうホールの役割というのは、当然生涯学習と関係してくると思いますけれど。私はこういうところでやるのがどういう意味があるのかとか、町民にとって。当然納税者ですから、税金を払って見返りのサービスを受けるという意味では、当然自分の好きなものをやってほしいという意見もあるでしょうし。
 そうであれば、例えば私なんかインド音楽やってる訳で、インド音楽なんか永遠にお呼びがかからないと思うんですね。町民は聴いたことないですから。
 じゃ何でインド音楽やるんか、あるいは全然聞いたことない人がここに来てやるのかということは、すごく大きな問題なんですけれど。結局我々は生きていること、豊かだということを感じるのは、自分のイマジネーションを選択肢をどんどん拡げていくということが重要な訳ですね。そのことが私は人間的成長だということの意味なんだと思いますが。
 そのときに、例えばよくコンピュータのことはよくわからんという人がいますが、それもコンピュータのことについての私のイマジネーションはここまでなんですよ。そこから拡げませんよということを表明している訳ですね。誰だってあんなものは簡単にやろうとすればできるんですよ。簡単ではないかもしれませんけど、幅を拡げようとしてる人にとっては、そんなにむつかしくないはずなんです。簡単にするようにみんな努力している訳ですから。
それと同じように何でも音楽でも聴いたことがないからダメだということじゃなくて、なんとかして自分の想像力の選択肢を拡げていこうと、その選択肢を拡げていくきっかけを公共のホールが常に提供している。ただ違うイマジネーションの使い方があるんですよと、聴衆とか町民の方に提案していく、紹介していくということがすごく重要であると思います。
 同時に一方では、エンタティメントという日常を離れて楽しみたいという要素と、もうひとつ先のイマジネーションの選択肢の幅をいかに拡げていくのかというために、どういうものを提供したらよいのかというと、おのずとおそらくそれまであった安定したものを提供するのじゃなくて、むしろ全然聴いたこともないようなもの、自分のイマジネーションになかったようなもの、を提供していくという選択肢がでてくると思います。
 だから、企画をするときの考え方というのは、そういう風な考えでやることが多いんですね。この前、ついこないだなんですけどね、大阪府の青年会館でワークショップやったんですけど、例えば、料理をこの舞台でやってもいいと。つまり日常の中で、脱線しますが料理の上手な人というのはどういう人かというと、ある素材とある素材とをこの時間経過でこういうものをまぜあわせていくと最終的にどういう味になるかという、素材があって最終仕上がりがあって、料理の上手な人は皿に置いた段階の味が想像できる人ですね。その人がすごくいい料理人ですよ。料理教室が流行るのはそのプロセスで最終仕上がりが想像できない人にとって塩が何gと言わなければならない訳ですね。優秀な料理人にとってはその分量なんか言わなくてもいいんですね。だいたい想像つくわけですから。
 それと同じようにそれまであったイマジネーション使う限りにあっては、非常に安定しています。精神的には安定なんですけど、でもそこで終りですよねその人のイマジネーションは。だから本当に生涯学習ということであるならば、永遠に死ぬまで自分の想像力の選択肢の幅をどんどん拡げていきたいというきっかけを公共ホールの人たちが与えるという役割が大きいと思うんです。
 だから二つあるんですよね、純粋なエンタティメントという要素と想像力の選択肢の幅を拡げるひとつのきっかけを提供するというか、そのためにはプロデューサーの立場ってものすごく重要になると思うんですね。
 プロデューサーというのはやっぱり自分は何のためにやっているのかということをはっきり、一番最初に館長がホールというのは哲学がないといけないとおっしゃったという、まさにそのとおりで自分はこういういきかたをするという哲学的みたいな、そういうところまででてくる人がはじめてイメージはどういうように拡張したらいいのかということ。その人自身も悩んでいるのですから、実にユニークでおもしろいものが出てくるだろうと思います。
 だから今日のまとめというのは変なんですが、少なくても私は、そんな風にしてプロデュースしていますし、きっとそういうことなんでないかなと思うんですね。両方で水口町の碧水ホールと私のやっていることと当然違ってもいいんですけれども、相対的にみるとみんなそういうことをめざしているんだと思います。

司会

 文化というのは、本当に幅を拡げていけばいくらでも拡げられるし、深くすれば深くなる。時間がいくらあっても足らない。足らないからやらないんじゃなくて、足らなければ回数を増やせばいいやないかという発想は当然でてくると思いますので。
 私はプライバシーなことでもそうですが、できなければその場でできなくてもいいやないかと、でも次もう一度やったらいいやないかと。じっくりものを考えていくタイプですので、どうしてもそうなるのかわかりませんけれども。じっくりと育んでいくというのですか。少しづつでも影響が地域の人に拡がれば、いろんなところでそれが起ってきたら、いずれすばらしい文化の町になるのじゃないかと思うんです。
 それはながい時間かかることで、いますぐどうこうということではありませんが。また日を改めまして碧水ホールフォーラムをこれからも続けていきたいと思います。
 今日は実に内容が深かったと思います。若干惜しかったなと思いますのは、昨日上野でやっておられますので、これと連携できたらよかったなと思いました。また一緒にやりましょう。ということで、本日はこれで終りにしたいと思います。






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